考試(前)

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考試(前)

 考試初日の朝、運ばれた食事を取って半刻ほど経った頃。雅楽団が属する楽舞司を統括している礼部大楽署の担当官が、客舎まで青藍を迎えに訪れた。  緊張で顔を強張らせながら、青藍は本日の考試会場となる大楽署へと向かう。  署や寮、八月舎と呼ばれる雅楽団員の勤め先を有する一帯は、城門から続く大通を挟んで宿からほぼ真反対の場所にある。位置関係は単純ながら、広大な敷地内であるので、体力不足の青藍は少々息を切らしながらの到着となった。  階段を上がり通された板張りの部屋には、既に二人の男が端座していた。  鼻の下と顎に筆を払って描いたような髭のある恰幅の良い五十絡みの男が、雅楽団楽師長の西敏(サイビン)と名乗る。八仙の一人にいた気がするというのが、青藍の第一印象であった。  細身で少々気難しそうな、西より十ほど若く見える男が、雅楽団弦楽班の長にして指導官予定の陶怡泉(トウイセン)。担当楽器は琴だという。雰囲気がどこか兄に似ており、青藍は密かに親しみを覚えた。 「いやぁ、糸仙と誉れ高い伯元楽舞司長が推挙されたなんて、どんな逸材か今から楽しみだよ。若い頃、あの御方には大変世話になってね。定年の延長を辞退して退廷されたが、その後も都に居られるものだと思っていたから、帰郷して悠々自適に暮らすと聞いた時は皆残念がった。それが、まさかこうして後進を育てていたとはねぇ」  西は広い口を結んでにこにこと人好きのする笑みを浮かべている。青藍もつられて微笑んだ。折り目正しく座した陶は、上長の隣でにこりともしない。  他の者が来るまで口頭試問の練習をしていようと西が提案する。青藍は是非にと頭を下げた。 「それでは燕青藍、まず琴を始めた切っ掛けを」 「私の故郷には琴の工房が多くあり、庶民にも琴が身近な土地柄であります。幼少の折、縁あって我が姉が伯元楽舞司長殿に御指導いただくことになったのですが、私の方が琴に興味を持ち、師事する運びと相なりました」 「良いよ良いよ。強いて言えば……声に落ち着きが欲しいかなぁ……声が若々しいのは仕方ないけれど、少しでも侮られないようにね。常に低く出すよう意識して。では次、琴曲に関する質問__」  幾つか受け答えをして緊張も口筋も解れてきた頃、残りの審査員がぞろぞろとやって来た。大楽署の官人と楽舞司所属の長らであろう。合わせて十余名が正面にずらりと端座し、青藍の一挙手一投足に注目する。  どれだけ立派で位の高い者も結局は同じ人の子なのだから、敬意は持っても必要以上に恐れることは無いよ。私をご覧、都ではそれなりの立場にいたが、ただのお爺さんだろう__  青藍は老師の言葉を思い出し、深呼吸を一つした。 「これより、燕青藍の雅楽団入団考試を開始する」  進行係から発表のあった考試内容は、事前に老師から聞いていた通りであった。  初日は口頭試問に始まり、審査員が弾く曲の譜面起こし、用意された譜面を見ての演奏。典儀曲を三つ、舞楽または宴席向けの曲を一つ、自由に選び演奏する。  二日目の上午は筆記試験を行い、下午には楽師が揃った前で課題曲を披露する。及落はその翌日に発表されるという。  本番を迎えて腹が括れたのか、緊張が度を越して麻痺したのか、青藍は思いのほか落ち着いていた。進行が挨拶を求める。青藍はきりりと表情を引き締めて正面を向き、結んでいた口を開いた。 「西濱より参りました、燕青藍と申します。此度はこのような機会を頂戴し感謝に堪えません。何卒宜しく御願い申し上げます」  西の助言どおり声を低くし、丁寧に座礼した。  次々と与えられる課題を無心でこなしていく内に、青藍はいつの間にか初日の考試を終えていた。予定より早く済んだので、一刻ほど現地に留まり課題曲を練習していくよう指示があった。正規の琴に触れるのは久方振りである。青藍にとって願ってもない話であった。  去る面々を丁重に見送り静かになった部屋で、青藍は課題曲の『天来』を弾き始める。長旅を経て指が鈍っており、貴重な時間を与えられたことに感謝しながら爪弾いた。  人心地がついたせいか、琴に向かい始めて間もなく青藍は尿意を催した。朝早くに済ませたきりであるのを思い出す。宿まで我慢することも考えたが、どうにも集中出来ない。このままでは折角の練習時間をふいにすると感じた青藍は、閑処を借りようと立ち上がる。 「……にしても、思っていたより……なぁ。一寸(ちょっと)まずいか」  靴を履いて板の間を下り、歩き始めて直ぐに、物陰から西と陶の話し声が聞こえた。雲行きが怪しい口ぶりに嫌な予感がする。そろそろと歩を進めた青藍は、息を潜めて耳をそばだてた。 「下手……良くない……。皆が皆……限りません」 「伯殿の文には、ここまで……とは書いていなかった……」 「長く一緒に居られて……のでしょう。あれではまるで……」  二人とも声量を抑えている上、八月舎から届く調べや階下の雑音が邪魔をして不明瞭であるが、先程の考試について芳しくない話をしているようである。  青藍が脂汗をかきながら立ち尽くしていると、音が止んだのを不審に思ったらしい陶が角から顔を覗かせた。眉間の皺が一際深い。 「練習は済んだのか」 「いえ、あの、閑処をお借りしようかと……」 「一日目を終えて手応えはどう?」  陶の背後から姿を見せた西が尋ねる。福福しい顔に、朝と同じ笑みを浮かべていた。 「概ね良好ですが、実技の一曲目では出だしが硬くなってしまいました」 「ほんの少しね。でも、齢十八の素人が弾いているとは思えない、期待以上の腕前だったよ。明日は大勢の前で弾くことになるけれど、焦らず慌てず平常心で挑むんだよ。そうすれば、ほぼ間違いなく及第点だから。あ、筆記の方も頑張ってね。口頭試問の受け答えを聞く限り、不足はないと思うけど」 「有難うございます。精一杯頑張ります」  閑処は一階にあるからと言われ頭を下げた青藍は、そそくさと階下を目指した。先刻の会話を聞く限り及第は望み薄なのかと思われたが、そういう訳でもないのだろうかと怪訝な顔をする。不安に駆られたが、何の話かと訊いたところで西ははぐらかし、陶は一層顔を顰めるだけだろうと容易に想像が出来た。  階段を下りる途中で足を止め、そっと帯に手を当てる。内側には昨晩授けられた真朱の組紐が挟み込んである。男が励ます声が聞こえてくるようで、青藍は落ち着きを取り戻した。  その日の夜、青藍は再び客舎の庭園にいた。  男が言っていた通り白木蓮の花が昨夜より開いており、周囲に甘い香りを振りまいている。  青藍は長椅子に腰掛けて一日を振り返った。考試終わりに盗み聞いた二人の会話が気になるものの、出来は上々で審査員らの反応もまずまずであったように思う。  明日の下午には大勢の前で一人、難曲を披露しなくてはならない。今日とは桁違いの人数である楽師達を前にして、取り乱さずに弾き終えることが出来るだろうか……  青藍は(おもむろ)に腰を上げ、木々に近づいた。妍を競う花々が心を慰める。  男の再訪を期待していた青藍であったが、この日は最後まで静かな夜であった。用も無いのに訪れるほど閑人ではないだろう。昨晩の出会いが僥倖(ぎょうこう)であったのだ、仕方がないと己に言い聞かせる。  及第して都に残れば何時(いつ)の日か巡り合うだろうと信じながら、青藍は寂しげな背中をして客舎へ戻った。
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