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飛鳥(中)
「御拾いの時間でこの辺りまで参りまして、燕殿が此方にいらっしゃると申しましたら、殿下がお会いしたいと……どうか突然の訪問をお許しくださいませ」
濃く長く描いた眉が特徴的な乳母が、掴んでいた茜色の裙を平らに直しながら申し訳ないような顔をして言う。
階段を駆け下りた天香が立番らに歓迎の意を取り次ぐと、階上の存在に気付いた乳母達は青藍が階下へ行こうとするのを制し、幼子を抱いて長い階段を上がって来た。隣では桂花が顔を顰めていた。
「いえ、御越しいただき大変嬉しく思います……殿下、またお会い出来ましたね」
青藍は腰を屈めてにこやかに挨拶をする。顔を寄せられ照れたらしい王甥は、額に花鈿を施している乳母の胸に顔を埋めた。淡黄色の衣を纏った豊かな胸が柔らかく受け止める。
「少々手狭かもしれませんが」
広い部屋を手配しようとして固辞され、半ば押し掛けるように自室へと上がり込まれた。
散らかっているからと如何にか少々の時間を得て、下膳と茶の手配を先に済ますことが出来たのは幸いであった。乳母らを部屋に入れてから此方の人員を減らしたくはない。
入室すると、それまで乳母に抱かれていた王甥が床へと下ろされた。大人の腰辺りまでしかない身長が愛らしく、青藍は思わず微笑を浮かべる。
「こんにちは、殿下。素敵なお靴ですね。お外は楽しかったですか」
しゃがみ込んで視線を交わした青藍は、目を細めて穏やかに語り掛けた。
花鈿の乳母の足にもじもじと纏わりついていた幼子は、笑顔で促されると、その小さな拳を青藍の鼻先へずいと突き出した。萎れた紫雲英が握られている。青藍は目を丸くして可憐な土産を見つめた。
「あい」
「私に、下さるのですか……? 有難うございます。元気になるようお水に入れてあげましょうね」
青藍は満面の笑みで花を受け取ると、使用中の花瓶があることに心底安堵しながら窓辺へ移動し、月季花の手前に紫雲英を活けた。直ぐに振り返って王甥に微笑みかける。
「見えますか、殿下。赤ちゃんみたいに小さくて可愛いですね…………あの、生憎とこの部屋には子の遊び道具がないのですが、小児用の琴でしたら用意が有りますので、殿下に御貸ししても宜しいですか」
顔を見合わせた乳母達が頷いたのを見た青藍は、片隅の琴置き場から速やかに小琴を持ち出して、部屋の中程にある卓子の上に置いた。
「殿下、今日はお琴で遊びましょう。綺麗な音がたくさん鳴って、きっと楽しいですよ」
笑みを向けた青藍に対し、王甥は何事か分からない様子で反応を示さない。扉近くと窓辺に分かれて立った天香と桂花は、先刻から何方も微動だにせず、目だけを動かしていた。
「殿下を抱いて其方へどうぞ」
青藍はにこやかに、窓を背にする側の椅子を指した。大眉の乳母へ何か目配せをして、花鈿の乳母が主を抱き上げる。そのまま青藍が引いた椅子に、王甥を後ろから抱きかかえる形で腰掛けた。然程広さのない卓子には二脚しか椅子の用意がない為、大眉の乳母は離れた場所で見守ることにしたらしい。青藍が着こうとしている席の後方、壁際に設置されている収納棚を背に立っている。
王甥らの正面に腰を下ろした青藍は、乳母に抱かれて大人しく指を咥えている子に優しく問いかけた。
「殿下は、何かお好きなお歌がございますか? この曲はどうでしょう……」
青藍は幼子の心が弾むよう工夫しながら、童歌や揺籃歌を幾つか弾き歌った。
王甥は大層喜んで、小さな手をぱちぱちと打ち鳴らし体を揺らして楽しんでいる。要望に応えて繰り返し歌った後、青藍は弾いていた小琴を王甥の前へ置いた。
「殿下も触れてみませんか」
馴染みのない器具に戸惑ったのか再び指を口に入れ始めた王甥であったが、青藍が腕を伸ばして弦を爪弾くと、それに倣って小さな指先で弦を弾いた。賢い子だと青藍は感心する。
興が乗ってきた王甥は先程の演奏を真似ている積もりか、がしゃがしゃと七弦を掻き鳴らし、青藍を見て愉快そうに笑った。青藍はにこりと笑みを返す。
「お上手です、殿下」
自身が伯老師から手解きを受け始めたのは現在の王甥より一、二歳年長の時であったが、当時の師も今の自分のように微笑ましく見ていたのだろうかと思うと、何とも言えぬ心持ちがする。王家の男児として何れ琴棋書画を習う時が来るだろうが、今日の体験が僅かでも好影響を齎せば良いと思った。
突然の来客と過ごす時は、予想に反して穏やかに流れていく。途中、用意を依頼していた物が運び入れられ、白湯と枇杷を与えられた王甥は美味しいを連呼して上機嫌であった。乳母らが茶を遠慮した為、大人達はただ幼子を見守る。長閑な時間であった。
余程気に入ったのか、王甥は小休憩を挟み再び琴で遊び始める。短い指と一緒に弦を弾きながら、青藍は無用の心配で終わるのかもしれないと考え始めた。
目の前で無邪気に笑う幼子に構いつつ、その子を抱えて座る乳母の一挙手一投足を注視していた。
今のところ不審な動きはなく、王姉からの言伝等を切り出すこともない。来客を狐疑し、王甥との戯れの最中も乳母の存在に気が散っていた。散歩の途中に寄ったというのが偽りでなかったとしたら、悪い事をしたと良心が痛んだ。
不意に王甥が、もぞもぞと小さな体を動かし始めた。背凭れ代わりの乳母を押し退けるようにして、窓のある方を振り向いている。
「ねぇね」
短い腕を窓辺に向けて何事か訴えてくるので、青藍は二人の体越しにそちらを見やった。背の高い台の上に置かれた白磁の花瓶。その中で、水を吸った紫雲英が生気を取り戻していた。
「お花、元気になりましたね。とても綺麗です」
青藍は王甥に視線を戻すと、朗らかに白い歯を見せた。渡し終えた萎花のことなど、遊ぶ内に忘れそうなものをと感心しつつ心が和む。
「燕様」
扉近くに立っていた天香が突如、緊張を孕んだ声を発した。
束の間、気を抜いていた青藍は、びくりと肩を震わせて声がした方を振り向く。王甥は再び琴で遊び始め、凍てついた場に不協和音が鳴り響いた。
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