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諾否(前)
体が重く、沼底に沈んでいる気分であった。一体どれだけの時間こうしているのだろうと、泥が詰まっているかのように動きの悪い頭で考える。最低限の浅い呼吸を繰り返し、何故か消耗している体力の回復を唯待っていた。
「青藍」
不意に己を呼ぶ声がして、青藍は閉じていた瞼をゆっくりと開く。いつの間にか、女の膝を枕にしていたらしい。自分と瓜二つの女は、感情の読めない静かな瞳でこちらを見下ろしている。暗闇の中で、自身と女の姿のみを明確に視認することが出来た。
女の登場により、己は今、夢幻の世界にいるのだと青藍は理解する。久方振りに現れた母は、平素と様子が違っていた。己を詰ることも、泣き喚くこともない。死の真相を知ったこと等が影響しているのだろうかと、一瞬間純化した頭で思った。
「お前はきっと、目覚めたら私のことなど忘れてしまうのでしょうね……」
成長した我が子の顔貌を確かめるかのように、死に装束から伸びた青白い手が輪郭を撫でる。さらりとした儚い感触に、青藍は切なさを覚えつつ目を細めた。
「それがいいわ……母のことなど忘れて幸せにおなりなさい。私も……お前を産み落としたその時は、幸福を願っていたのよ」
母の魂魄が己の夢に入り込み語っているのか、妄想の母に理想を語らせているだけなのか、青藍には判断しかねた。どちらにせよ頭を撫でる手は酷く優しく、兄の触れ方に似ている気がした。
此方からも触れたいと、青藍は腕を伸ばそうとする。しかし、宝物庫で見た三尺四方の画像石に全身を押し潰されているかのように身動きがとれず、眼前に垂れ下がる濡羽色にも届かない。
震わせながらほんの僅か持ち上げた利き手を、突然掴まれる感覚があった。
「青藍!」
びくりと胸を震わせて青藍は覚醒する。先ず視覚が捉えたのは、見知らぬ天井であった。普段使用している寝台と違って天蓋がない。
僅かに首を動かすと、寝台の傍に置いた椅子から腰を浮かせた王と目が合った。夢の中で動かすのに難儀していた手を、縋るようにきつく握り締められている。その表情には普段と違い一切の余裕が見られなかった。
王の背後には松丞相補を始め複数の官人の姿があった。不可解な状況に目を細めた青藍は、未だに泥が抜け切っていない頭で思案する。
来訪を待つ間に寝入ってしまったのだろうか……そう、夢を見ていた。内容は既に忘却したが、悪い夢ではなかったように思う。それにしても、王とは諾否を伝える日まで会わない筈では……此処は何処だろう……室内の明るさは昼間のようで王は執務服を纏っているが、何刻なのだろうか……
取り敢えず一人眠り込んでいたことを詫びなくてはと身じろぎをして、大きな手に押し止められる。
「すみま……」
再び枕に頭を載せた青藍の声は酷く掠れ、最後まで言葉を発することが出来なかった。喉に紙が貼りついているかの如き違和感に耐え切れず派手に咳込む。
近寄ってきた医師に、注ぎ口の長い急須を使って薬湯を与えられた。清涼感のある味がする薬湯を、青藍はごくごくと喉を鳴らして飲んだ。問診が行われ身体に異状なしと見做されると、王が早々に人払いをする。
制する王に問題がないことを伝え、青藍は背骨を軋ませつつ半身を起こした。いつの間にか寝巻を着ているのに気付き、美しい衣装を王に披露出来なかったことを残念に思う。朝、桂花達が結った髪も解かれていた。
「煌龍様、済みません……貴重なお時間を頂戴してしまって……」
青藍は事情が分からぬまま曖昧な謝罪をする。見知らぬ部屋で寝ていた理由も、執務中の王が来訪している理由も全てに見当がつかない。
「はぁ……今回ばかりは報せを受けて肝を潰した……」
人気の無くなった部屋で、溜息交じりに王が言う。眉根を寄せ何か激情を抑えている様子であった。青藍が小首を傾げているのを見て、怪訝そうに凛々しい目元を細める。青藍は向けられた表情の意味を察することが出来ず不安になった。
「四日前に何が起きたか、覚えているか」
丸三日も自分は眠っていたのだろうかと、次は青藍が怪訝な顔をする番であった。全身が清潔に保たれており、四半刻ほど転寝をして起きたかのように爽快であるため俄かには信じ難いが、異常な節々の軋みや喉の渇きに納得もする。
呆けている青藍に、王は顔色を窺いつつ言葉を続けた。
「二階から落ちた玄を追って、手摺を越えて飛び降りたろう」
「あ……」
瞬く間に顔面蒼白になり、動悸がし始める。あれ程の大事を青藍は何故か失念していた。しかし、支柱の陰に入った王甥を保護しようと駆け出した以降の記憶がない。頭痛がしたかのように額を押さえ、思い出そうと努めるものの徒労に終わった。
「……周囲の証言に拠ると、玄が体勢を崩したのと殆ど同時にお前は手摺の上に飛び乗り、一切の躊躇なく頭から投身したらしい。水中の魚を捕食する鳥のようだったと表現する者がいれば、天女や鳳凰の類に見えたと言う者もいた……床面近くで追いついた玄を確とその胸に抱くと、小さな体を庇ってその身を床に打ち付けたそうだ」
苦々しげに目を細める王に、寝具を握り締めた青藍は恐る恐る訊いた。
「殿下は、御無事なのですか」
「……激しく泣いたせいか発熱したようだが、体は全く無事だった」
緊張が解けた青藍は俯いて安堵した。紫雲英を差し出し、小琴を掻き鳴らして笑う無邪気な姿が思い起こされる。自らが引き起こした事の為に若しものことがあれば、悔やんでも悔やみ切れない。
襁褓も取れていない子に恐ろしい体験をさせた事実を思い、青藍は唇を噛んだ。泣いて暴れる王甥を見ながら内省した時に湧いた自責の念が、何倍にもなって腹の底から迫り上がってくる。
これまで自分には殆ど甘い顔しか見せてこなかった王が、相貌に後悔と怒りを滲ませているのが青藍には悲しく恐ろしく、暗澹たる思いを増大させた。
王が求めている側妃とは、果たしてこの様な人間であっただろうか……あの日心に浮かんだ言葉が蘇る。顔色の悪い青藍を見て、王が秀眉を顰めた。
「体が辛いなら俺に構わず横になれ。医者を呼ぶか」
「いえ、平気です……ん……」
「昏睡状態にあって血の巡りが悪かったせいか、妙に冷えているな……手先も氷のようだった」
青白い肌に当てた掌を頬から首筋へ滑らせて体温を確かめた王が、険しい顔をして零す。むず痒さから小さく震えた青藍の肩に、王は纏っていた深緋の羽織を打ち掛けた。温もりに触れ、僅かに気が安らぐ。
「事の顛末を聞いた」
落ち着いた低声で告げられ、青藍は真正面から冷水を浴びせられた気分になった。息が詰まり、全身が硬直する。三日もあれば当然のこと聴取は済んでいるだろう。王姉の件について、起こり得る限り最も悪い状況で把握することとなった王は、報告を受けて何を思っただろうか……
己の至らなさや醜悪さを王に知られたことが、青藍を居た堪れない気持ちにさせる。
視線を王から寝台の上へ移した青藍は、一層顔色を悪くして項垂れた。
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