諾否(中)

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諾否(中)

 王の気遣いを無下に扱い一人で抱え込んだ結果、手に負えず騒ぎを起こして幼い王甥を危険な目に遭わせた。王城内で流血沙汰を起こすなど前代未聞の狂態であろう。職務に専心したいが為に妻子を持つことを忌避していたという王に、その考えは正しかったと証明してしまったのではないか。呆れ果て、自分に対する想いも冷めたことだろうと思う。  背筋が凍るよう……色を失った青藍はぶるりと震えた。 「青__」 「大王陛下」  他人行儀な呼称で発言を遮った青藍は、腹まで掛けていた寝具を勢い良く取り払うと、寝台の上で王に向き直り深く頭を下げた。 「此度は、誠に申し訳ありませんでした……っ」  平素より険のある表情で告げられる内容が怖ろしく、青藍は一方的に謝罪を始めることで一切の言葉を拒絶した。俯いた視界にも入る深緋の執務服。国主の貴重な時間を奪っている事実を突き付けられ、心苦しさから顔を歪める。  青藍は頭を下げながら、月事が始まり半陰陽が露見した後、審理の召喚に王が訪れた際のことを思い出した。こうも頻繁に謝罪の機会がある側妃など、明らかに正常な存在ではない。 「他の方であれば誰であっても私よりは上手く対処出来たでしょうに、方々に御迷惑をお掛けした挙句、陛下のお顔に泥を塗り、こうして煩わせてしまいました」 「青藍」 「何より、幼い殿下に良くないものを見せ、恐ろしい思いをさせてしまったことが悔やまれてなりません……」  目を瞑って寝台に頭を擦り付けた青藍は、王が呼ぶのを無視して独り善がりな口述を続ける。こうした態度も、妃どころか一国人として非礼甚だしい自覚はあった。側妃としてあるまじき一連の行動といい、見限られない方が可笑しいと思う。青白い額に脂汗が浮いた。 「__詰まる所、私はあまりに未熟で、浅慮で、やはり側妃の器では無いのだと思います。陛下の様な十全十美の方に嫁する資格がない。陛下の汚点になりたくはないのです。貴重なお時間を愚行で奪い煩わせる愚人でなく、どうか相応しい方をお迎えください」  深みに(はま)った青藍は、王の顔を見ることが出来ないまま錯乱気味に捲し立てる。数々の述懐が決定的な一言へと集約していくのを止めることが出来なかった。息が吸い辛く、酷く気分が悪い。 「この上なく光栄なお話を頂戴して幸甚の至りでした。ですが、これが返答です。私如きから切り出すのは不遜極まりないと存じますが、最早陛下のお傍には居られませんので一両日中に郷里へ帰__」 「青藍」  語気を強くした王に薄い肩が揺れる。恐る恐る身を起こした青藍は、華奢な顎に手をかけて顔を上向かされた。鋭く光る黒曜の瞳。目を見て話せと言うことだろうか……  再び口を開きかけたその時。不意に精悍な面差しが眼前に迫り、唇が重ねられた。軽く触れるだけで離れていった体温。  思いがけない行動に吃驚し言葉を失った青藍は、(ただ)パチパチと瞬きを繰り返す。長い睫毛を涙の粒が飾った。 「漸く口を閉じてくれたか……このままでは今し方摂った水が全て流れ出てしまう。この様な酷い顔をして不安定な情動で、双方にとって重要な決定を下してくれるな」  入宮を辞退しようと多言しておいて、途中から流れ始めた涙。しとどに濡れた両頬を挟み込むようにして、温かな王の手が拭う。先程まで険しい顔をしていたのが、今は微苦笑を浮かべていた。青藍は少し落ち着いて鼻を啜る。 「どうして泣く」  涙堂の辺りを親指の腹で撫でながら、慈しみ深い低声で愛を注ぐように王が問うた。口付けで言葉を吸われたかのように大人しくしていた青藍は、静かに訳を語り始める。 「……此度の一件で、自分に側妃の素質がない事が身に沁みて分かりました。本当に、全てが悪手で……事を起こしたあの日、調子付いていたのも滑稽で、今、自己嫌悪が止まないのです。だから、辞退しないといけないのに、辛くて……だって、一度は陛下と共に在ることを決めたから……でも、こうやって陛下の前で涙を流す自分は、怪我をした時から何も成長していない、それどころか退行さえしている自分は、やはり相応しくないのだと思ってしまって……勝手に辛くなってまた涙が出て……」  途中から聞き苦しく声が震えた。  低頭した際に青藍が落とした深緋色の衣を手に取った王は、幼子のように涕泣(ていきゅう)するその肩へと再び掛けた。青藍は片手で顎を伝う涙を拭いながら、もう一方の手で羽織を胸元へ手繰り寄せる。 「()ず、お前は己の対応を責めるが、都に来て二年余りの人間が、三十余年も城内に暮らす王族と対等に遣り合えたら末恐ろしい。玄の前で事が起こったのは玄を利用した彼奴らの所為だ。如何してお前が気に病むことがある」  これ以上なく眉尻を下げ鼻の頭を赤くした青藍は、啜り泣きながら、王が静かに説き聞かせるのに耳を傾けた。その内に王がはっきりと苦笑する。 「お前の意思を尊重したいと、猶予の間、入宮に関して積極的に触れずにいた。熟慮の邪魔立てをしたくなかった。甘言蜜語を弄さぬ自信もなかったからな。しかし、徹底的に語り合い、不安を取り除いて開襟し易い関係を築いてやるのが正しかったのだろう……お前は自らの行動を全て悪手だったと言うが、俺の方が余程酷い」  自嘲的に笑った王が(おもむろ)に席を立った。執務に戻るのだろうかと鼻の下を擦りながら見上げる青藍の前で、腰掛けていた椅子を脇へ退ける。 「此度の事、誠に済まなかった」  青藍の見ている前で、王は床に膝をつき頭を下げた。  愛の告白を受けた時と同等かそれ以上に驚愕した青藍は、現実離れした光景に息を呑んで体を仰け反らせる。顔面蒼白になり唇を震わせながら、艶のある黒髪を纏める白銀の冠を見下ろした。  大いに戸惑い、半端に開いた手が宙を彷徨う。 「近くに置いていたのにも拘わらず危険に曝し、傷付けた。我ながら酷い為体(ていたらく)忸怩(じくじ)たる思いだ」  一国の王が市井の民に膝を折り謝罪の言葉を口にするなど、あってはならぬ事である。周章狼狽した青藍は取り急ぎ止めさせる為、また高い位置から見下ろすのが(はばか)られもして、寝台から降り立とうとした。 「御止めください陛下、私がいけなか……っ!?」  足腰が立たず、腰を浮かせた青藍はそのまま前方へと倒れ込む。鈍い衝撃が走った。  床上で逞しい体に抱き留められた。思わぬ出来事にバクバクと激しく胸が鳴る。耳元で無事を確認する声に深謝しつつ慌てて離れようとする青藍であったが、細い体に回された腕に力が込められた。 「ひっ!」  片手をついて半端に上体を起こしていた偉丈夫は、細腰を抱く腕を解かぬまま(わざ)と後方へ倒れ、青藍に小さな悲鳴を上げさせた。  床に倒れ込んだ王へ覆い被さる形で抱き締められている。今までにない密着に赤面し恐縮する青藍に、このまま話そうと王が笑った。  (かつ)てない体勢に全身を硬直させた青藍であったが、相手に解放する気がないのを覚ると観念し、くたりと力を抜いてその身を預けた。胸板に顔を埋め熱くなった頬を隠す。密かに薫香を嗅いだ。 「階上から落ちたお前をこうして受け止めてやりたかった……居合わせることすら出来ず報せを受けた時は頭が真白になった。人生でこれ程に周章し(かん)が高ぶったのは初めてのことだ」 「……ご心配をお掛けして済みませんでした」  合わせた胸や腹から伝わる熱が、衣越しであっても充分に心地良い。この温もりを手放す為に、自分はあれこれ捲し立てていたのだと思うと心が痛む。 「玄を守る為に挺身したこと、心から感謝する……愚姉とは既に直談を済ませた。もう二度と、妙な企てをすることは無い筈だ」  膝を交えての談笑といかなかったことは想像に容易い。青藍は黙って頷いた。 「何か思い違いをさせたようだが、此度の件でお前に嫌気が差した事は一つもない。相談が無かったのも、己の至らなさに自省しお前の立場に同情こそすれ、如何して失望することがあろう……あの日、初めてお前から呼び出しを受けたと梨花が言っていた。打ち明け話をしようと考えていたのではないか」  愛猫にするように優しく背中を擦られている青藍は、こくりと小さく頷いた。心地良い低音に聞き入りながら、王が自省することなど何一つ無いのにと恐縮する。 「前夜に俺が言ったことを心に留めて、お前なりに悩んで行動しようとしていたのだろう……この様な目に遭わせて言う事ではないが、お前の奮闘を嬉しくさえ思うよ」  心を慰撫する言葉を送られ、微かに甘く香る頭に口付けられた。再びじわりと涙が浮かんだのを零さないように、青藍は唇を結んで耐える。 「……でも、今回の事で私は自身に失望したのです。側妃らしからぬ行動ばかり選んで、目を吊り上げて王城内で暴れ血を流して……自分にこの様な一面があるとは露知らず戸惑っています……陛下が魅かれた私はこの様な人間ではなかったでしょう……? 陛下が傍らに置いておきたいと思ったのは、閑雅に琴を奏でその御心を癒す存在だった筈です」 「そうだな……過日、随分と草臥(くだび)れた姿を見せて気遣わせ、(あまつさ)えお前の寝床を奪いもした事があったが、あの夜、普段と違う俺を見て幻滅したか」  王の胸に右の頬を置いたままで、青藍は一、二度、首を横に振った。 「いえ……執務が大変なのだなと心配して……それから信頼得ていることに喜びを感じ、酷く愛しくなって…………密かに思いを募らせました」 「ふっ……そうか……俺も同じだ。普段と違う一面を開示されたからとて、それが害心等でなければ心が離れることはない。むしろ、懸命な姿を愛しいとすら思う……伶人という理由だけで好いた訳ではないのだから、むしろ知らない顔をこの先も沢山見たい。此度の様な状況でそれを引き出したのは不本意だがな」  床上とは思えぬ居心地の良さに藍の瞳をとろりとさせて両の腕に収まっている青藍に、王は尚も言葉を続けた。 「……良かれと思いした事を利用され、(ことごと)く嫌な目に遭わせた。政のようにあらゆる可能性を考えて、里の家族に代わりお前を庇護する必要があるというのに、傍に置くだけで安閑としていた。下劣な真似をした愚姉にも、認識の甘かった己にも憤懣(ふんまん)遣る方ない。自己嫌悪に陥るべきは俺の方だ」  片手を細腰に回し、もう一方の手で美髪の流れる背中を撫でながら王が言う。それまで眠っているかのように静かであった青藍は目を見開くと、王の体の上で身を乗り出し声を上げた。 「兄との宝物庫見学を手配してくださったことも、殿下と引き合わせてくださったことも、陛下のお心遣いが本当に嬉しかったのです。それ自体は私にとって心楽しく幸福な出来事だったのですから、どうか悔やまれないでください。私が直ちに王姉殿下の件を打ち明けてさえいれば、良き思い出で済んだことなのですから……」  青藍の訴えに王は参ったような苦笑をすると、目の前に迫った白い額に唇を押し当てた。少し前までは縁遠いものであった甘い触れ合い。むず痒くて堪らないが、一度も不快に感じたことはなかった。状況を弁えず、より多くを欲している己に呆れる程である。 「一つ断っておくが、俺はお前が思う程に出来た人間ではない。この歳になるまで世継ぎも儲けず、漸く見初めたお前を窮地に立たせ、泣かせて……意思を尊重したいなどと言っておきながらお前の返答を遮り、言葉を尽くして引き留めようとしている、余裕のない哀れな男だ…………どうした」  胸に頬を寄せて嘆息した青藍に王が訊く。 「……陛下は本当にご立派な御仁ですと、お言葉に対する反論が止め処なく湧いて溢れそうになったのですが、今の私にはそれを口にする資格がないと……思い止まりました」  青藍は素直に言い終えると複雑な表情をした。王に甘え、入宮に関する先の返答を無かったことのように振る舞っている。発作的であったとはいえ、口にした事は事実であり辞退も正しい筈である。しかし、優しく体温を移されながら対話をしていると、否が応でも心が揺らいだ。 「はは、以前にも長所を列挙されたことがあったな。終いには乾菓子に(たと)えられ愛の告白を受けている気分だった……あの時、本当は何と言うつもりだった」  青藍は王宮に身を寄せていた頃に思いを馳せる。一回りも歳の離れた為政家(いせいか)と過ごすのは退屈でないかと訊かれ否定した。それ程昔の出来事ではないが、酷く懐かしく感じられ、同時に面映ゆい。  あの時、危うく言いかけて飲み込んだ言葉。伝えては後戻りが出来ないように思えて、青藍は鼓動を早めつつ暫し沈黙する。  細腰を抱いた左手はそのままに、背中に回されていた王の広い掌が、熱を帯びた青藍の(うなじ)から首筋にかけてを覆った。薄く白い肌の上を長い指が愛しげに撫でる。やがて青藍は喘ぐように囁いた。 「……お別れの時を思うと、辛くなります……と……」
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