諾否(後)

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諾否(後)

「……お別れの時を思うと、辛くなります……と……」  求愛を受ける前から恋情には無自覚ながら魅かれていたことを再確認し、この様な場面で白状してしまった。僅かな躊躇を経て請われるまま素直に口にしたことに側妃への未練が表れているようで、青藍は己の一貫性の無さに顔を顰める。  辞退せんと息巻いていたのは何であったのかと、自身の無節操を滑稽にさえ思った。しかし、偉丈夫には心嬉しい言葉であったらしい。再び頭に口付けを受けた感触があり、力強く抱擁された。複雑な心中とは裏腹に体は純粋な悦びを感じ、青藍は熱の篭った溜息を吐く。 「青藍。入宮に関して、再考して貰えるだろうか」 「……こうして泣いてばかりいる、意志薄弱な私にも務まるでしょうか」  青藍は薄い瞼を僅かに開けると、許諾とも拒絶ともつかない卑屈で曖昧な返事をした。 「楽師時代は良くやっていたと聞いた。素養や為人(ひととなり)も妃に相応しいと思っている。人は急難が起これば大なり小なり消沈し惑うものだ。慣れぬ場であれば尚の事」  顔も見ず曖昧に返した言葉にも、立腹するどころか何処か嬉しさの滲む声で王が言う。胸に頬を寄せ横向いている青藍の髪の生え際あたりを、愛しげに親指で撫でた。心地よさに思わず目を細める。 「明暮泣かれては困るが、(たま)のことであれば素直に感情を示してくれるのは寧ろ嬉しい。それに、嫁する前は心が不安定になるものなのだろう? 後宮に住み慣れてしまえば、以前のように落ち着くのではないか」  揶揄いまじりの微笑を浮かべているのが見るまでもなく分かり照れくさい。  ここまでしても己に肯定的であるのは、相当熱を上げられている証拠ではないかと考えて、青藍はじわりと頬を熱くする。非礼も因循(いんじゅん)も全て許されてしまうのであれば、最早(もはや)入宮を辞退する理由が無い。 「陛下は、何があっても私の事を受け入れてくださるのですね」 「惚れた弱みというものだろうか。だが人を見る目には長けている筈だ。十年もの間、恙無(つつがな)く世を治めているからな……青藍、そろそろ、そのつれない称呼を元に戻してはくれないか」  口説き落とされつつある青藍の耳元へ唇を寄せ、王が乞う。青藍は甘美な囁きにぞくりとして目をきつく瞑り呼吸を整えた。最後に深く息を吐くと腕の中で身じろぐ。  今胸の内にある事は、真摯に顔を見て伝えねばならないと思った。  やおら半身を起こし、居心地の良い王の胸から離れる。抱擁は簡単に解かれた。  腹の辺りに跨り広い胸に手をついた青藍は、熱情を孕んだ静謐(せいひつ)な藍色でしかと黒曜の瞳を見下ろす。暫し無言で見つめ合った後、意を決した青藍は覚醒後と比べ血色の戻った唇を開いた。 「感情に走って頂戴した権利を手放そうといていたのに、疑わしく思われるかもしれませんが、私……燕青藍は、煌龍様を心よりお慕いしております。恐らく、花盛りの庭園で相見(あいまみ)えた時からずっと……この先も陸み合い共に時を重ねていけるのだと思うと……そういった相手に選んでいただいたのだと思うと、胸が詰まるほど嬉しい。私のような不調法者でも構わないのであれば、是非、末永くお傍に置いていただきたく存じます」  受諾の言葉を瞠目して聞いた王は、一呼吸置くと右腕を上げ、広い掌で青藍の頬を包んだ。 「お前が昏睡している間、この美しい瞳を二度と見ることが叶わないのではと、怖ろしい想像をして心が乱された。酷く怒りが湧き、己を律するのにあれ程苦労したことはない」  血が通っていることを確かめるかの如く、顔の左半分を覆う手に力が込められた。  不思議と無瑕(むか)でいるが、落下の前夜、静かに抱擁を交わしたのが目の前にいる男との今生の別れとなっていた可能性を思うと、今頃になって酷く怖ろしくなった。眉根を寄せた青藍は、掌に顔を押し付ける。 「この先もお前を寵する権利を授けてくれたことに感謝する。お前が健やかに笑んで過ごし、我が伴侶となる選択をしたことを唯の一度も後悔しないよう尽くすと誓おう」  青藍は吸い込まれるように身を倒した。形の良い小さな頭を片手で引き寄せられ、端正な顔が眼前に迫る。唇が触れ合う寸前、低声が告げた。 「燕青藍、愛している__」  落涙を止めた口付けよりも長く濃く、唇を押し当てられる。きつい抱擁に眩暈がした。 「んぅ……」  幾度も口付けを交わす内に熱い舌がぬるりと口内へ侵入する。見知らぬ行為に驚いたものの、味わったことのない快感を青藍は必死に受け入れた。自然と目が潤む。  狭い口内を生物のように巧みに動き淫楽を(もたら)す舌へ、ぎこちなく己の舌を絡ませる。合間に漏れる吐息の浅ましさに恥じ入りつつ、青藍は柔らかさと熱を食み合う行為に没頭した。愛しさが腹の底からせり上がり身震いする。泥酔時のようになった頭は快感を拾うのが精一杯であった。 「はぁ……煌龍さま、私も、すき……」  息が上がった青藍は、愛しい情人へ途切れ途切れに囁く。情欲を宿した凛々しい目を細めた男は、最後にもう一度、食らい付くように濃厚な口付けをして少婦を(とろ)けさせた。 「色気も情緒もない場所で済まなかった」  一頻り互いの唇や口内を愛撫し合った後、青藍の濡れた口元を拭い、生白い脚が露わになった寝巻の乱れを直しつつ王が微苦笑した。自身の慎みのない振る舞いに、青藍は改めて顔を赤くする。  寝台に戻った青藍は、執務着の乱れを直す王の立姿をぼんやりと眺めていた。  この方に嫁するのだな……未だ恍惚としながら思う。壊れる程に激しかった胸の鼓動は大分落ち着いたものの、普段より幾分か速い。深緋の羽織を纏う精悍な横顔に見惚れていると、不意に視線がかち合い王が破顔した。長身を屈めると上半身を起こしている青藍の手を恭しく取り、白くほっそりとした指の背に口付けを落とす。 「()い返事を聞くことが出来て欣幸(きんこう)に思う……入宮するに当たり、暫し慌ただしくなる。良く休んで英気を養ってくれ。取り急ぎ食事だな。余りに軽くて驚いた」  緋金錦(ひごんき)殿からの帰り道に交わした会話が頭を過る。 「私は今や煌龍様の汝鳥(などり)ですから、自由勝手に飛び立つことはありません……よ」 「……ふ、照れているのか」  半ば無意識に出た言葉に気恥ずかしくなった青藍は、視線を正面に戻して俯いた。下向く顔を隠す髪を掬い上げて耳にかけられる。曝された頬へ唇が当たる優しい感触。 「さて、名残惜しいがそろそろ戻らねば。また時間を見つけて会いに来る」  王はそう言うと、再び強く青藍を抱き締めた。広い背に手を回した青藍は、邂逅(かいこう)当初より惹かれていた香りを胸一杯に吸い込んだ。幸福で満たされる。  力を緩め去る気配を見せた王へ、青藍はおずおずと申し出た。 「煌龍様、お帰りのところ申し訳ありません。此度の騒動は私が無理を言って殿下方をお招きした為に生じた事です。巻き込んでしまった皆様には何の落ち度もありませんので、責罰されることの無きようお願いしたいのです……それと、王甥殿下に何かお詫びが出来たら嬉しく思います。直接お会いするのが良くないようでしたら、何か甘い物でも……あっ、それから乳母の方__」 「皆まで言わずとも良い。此方で全て上手く処理しておくから、お前は何も心配せずに休んでいなさい」  苦笑する王に、起こしていた身を丁寧に寝台へ倒された。寝具を掛け、額に優しく口付けを落として去っていく偉丈夫を見送った青藍は、天上を見つめながら夢のようだと思う。  大丈夫に見初められたこと自体が僥倖(ぎょうこう)であるというのに、心を通い合わせる機会を得て、側妃の座に就く運びとなった。元来、後宮入りなど露程も望んでいなかった青藍にとって荷重で無いといえば嘘になるが、温かく魅力的な大人(たいじん)である威煌龍と結ばれたことは至上の喜びである。  暫しふわふわとした気分でいた青藍は、入宮に関して思案した。  故郷へ文を送ることは可能か、関連して燕青藍の扱いはどの様になるのか、不義理を働いている楽師諸兄へ一言でも世話になった礼を述べたい……あれこれ思い巡らせていると、人払いにあった医師達が戻り、改めて診察を受けた。  弱った足腰の機能を回復すべく腹を空かせて室内を歩き回る青藍の元へ、女官達が食事等を運びに訪れる。その中に良く知った顔を見つけた青藍は、思わず表情を明るくした。  目が合った梨花は心底安堵した様子で微笑み、静かに頭を下げる。事情を知って心痛を与えたことであろうと申し訳なくなり、青藍も丁寧に礼を返す。  十二分に睡眠を取った筈が、食後暫くすると欠伸が出始めるので青藍は不思議がった。  丸三日眠り続け、今もなお眠気に襲われている異常は認識しており、この気怠さが桃園の火難後に気を失った時のものに酷似している自覚もあったが、落下時の打ち所が悪かったのだろうと片付ける。唯でさえ思案すべき事柄が多々ある中、鳳凰云々について考える余裕など皆無であった。  微かに漂う生薬の臭いを感じながら、一刻余りの覚醒を終えた青藍は再び意識を手放した。
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