稽古(前)

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稽古(前)

 始業の一刻半前に起床すると、平素は必ず着用するようにと支給された見習着に袖を通す。  肌着の上に衿の幅が広く取られた中衣を着る。慣れない内は首回りが窮屈に感じた。踝が隠れるほど長い褲こを穿き、膝丈の上衣を着て細身の帯を締める。  掃除や雑用で動き回り易いよう、また、一目で見習と判るよう特別に誂えたという衣装。凡そ宮廷楽師には見えない代物であるが、青藍は支給に感謝し大切に扱っていた。殆どの楽師が文化人らしい姿で出仕している中、色味がなく労働者風の姿は却って目立ち、気が引き締まる。  身支度が済むと八月舎の周辺を掃き、広堂と弦楽班室の床を磨き上げる。広堂内に安置されている、楽神を祀る祠堂を清潔に保つことも忘れない。一通り掃除が済むと、急いで朝食を詰め込む。大楽署にて楽団宛ての書簡等を受け取り、巳の鐘と共にようやく始業を迎えた。  これらの朝課を、以前は青藍と同班の孫宇浩(ソンウコウ)が担当していた。二十五弦を有する大型の筝、(しつ)を弾く。大柄で朴訥とした青年である。  青藍の入寮に際して部屋を確保するため、一握りの伶人が生活を共にする寮を出て今は城下に住んでいる。転出を強いたことを青藍は申し訳なく思っていたが、当の本人は淡々としていた。  青藍の入団後暫くは、引継ぎの為に早朝から出仕していた孫であったが、ある朝二人で井戸端にいたところ、必要以上に世話を焼くなと陶に咎められた。以降は規定通りの時間に出仕している。  編徴ら曰く、陶を心服しており、休日には二人で連れ弾きを行うこともあるという。勤めを離れても修練を怠らない姿勢に、青藍は大層感心していた。  三日もすれば要領を掴んだ掃除や雑務に対し、肝心の琴に関して青藍は辛酸を嘗めていた。  特に初日の出来は、思い出すたびに怖気立つほど酷い有様であった。  丁度、既知曲の合奏があり、腕試しにと青藍も参加を許された。琴に関して言えば、難易度はそう高くない曲である。落ち着いて挑めば問題ないだろうと、青藍は程よい緊張感を持って臨んだ。  隣の陶が同じ旋律を弾くので手本にするよう言われ、まずは一度、皆の演奏を聴いた。青藍は大いに戸惑う。自分が知っている曲とはまるで違って聴こえた。  二度目にしてようやく陶の弾く旋律を拾えたが何も出来ず、三度目で参加を促される。  拍子は一定だというのに多種多様な音色に圧倒されて混乱し、自分の旋律を見失ってしまう。狼狽したまま弦を弾いたものの、一拍も二拍も遅れ、先走り、節奏などあったものではなかった。  合奏後、数十人分の苦笑が青藍に突き刺さった。恐ろしくて、隣で長嘆する陶の顔を見ることが出来ない。 「まぁ、想定していなかった訳じゃないからさ、そう気を落とさないで。これを機に発奮して頑張ろうよ。初日だしまだ見習なんだから」  西が励ましの言葉をかけに来たが、すっかり意気消沈していた青藍は何と答えたかも覚えていない。  その日は腑抜けた状態で過ごした青藍であったが、大切な師の晩節を汚す訳にはいかないと奮起する。翌日から襟を正して稽古に励んだ。  陶に一対一で教わる傍ら、各楽師の元を回って楽器の特性を学び音に慣れる。班または全体で合奏が行われる際には、邪魔にならぬよう別室で聴きながら音を重ねた。  他の楽師のように公事で演奏することも机仕事もない青藍は、日がな一日修練を積んだ。入団考試の前も根を詰めたが、毎日がそれ以上であった。  ひと月半が経ち、進捗を見る為に再び合奏の場に加わることが許される。  訓練の甲斐あって、初日に痛い目を見た曲を無事に完奏することが出来た。楽師達が口々に誉めそやす中、青藍は真っ先に陶を見る。期待は外れ、眉を顰めていた。 「合わせて弾けた、というだけだな。弾奏自体は稚拙で、子供が交ざっているのかと思った」  視線もくれずに言われ、青藍は肩を落とす。陶の言うことは尤もであった。周りに合わせるのに手一杯で、覚えたての初心者のようなぎこちない音色。自覚はあった。 「皆の邪魔になる。部屋に戻りなさい」  短く詫びた青藍は、琴と台を抱えて足早に広堂を後にした。 「さっきの事といい、陶班長と青藍を見てると継母の継子虐めでも見ているようで胸が痛むよ」  昼食後、青藍の正面でへし口をした編徴が言う。隣で大角が顎肉を震わせながら頷いた。羽偉は青藍の隣で茶を啜りながら話を聞いている。 「しごきが武官並みだよねぇ。今日だってせっかく頑張ったのに冷や水を浴びせるようなこと言ってさぁ」 「……陶班長は正しいです。私が不出来であるばかりに、皆様に御迷惑をお掛けして……」  青藍はいつになくぼそぼそと喋り項垂れた。今まで苦労らしい苦労を経験したことがなく、それを唯一の特技で味わうとは思ってもみないことであった。不甲斐なさに胸が押し潰されそうになる。  先程の弾奏は、陶の言うように到底宮廷楽師として求められる水準に達していなかった。完奏直後に達成感を感じたことさえ情けなく、顔を上げることが出来ない。 「まだふた月も経ってないんだもの、よくやってる方だよぅ」  大角が温かみのある声で言い、今度は編徴が頷いた。二人の気遣いに笑顔を作った青藍の前に、横から筋張った手が伸びて何かを置く。 「近所の婆さんがくれた蒸し餅。甘くて美味いから腹が減ったら食べな」  羽偉はそう言うと、青藍の丸まった背中を軽く二度叩いた。  大きな葉で幾つか包んであるらしい。この時間に皆で食べようと持参した物であろうと思われた。昼食は殆ど喉を通らず大角にやってしまい、空腹は必至である。  感謝の言葉を口にしようとした青藍の瞳から、広堂では耐えた涙がぽろぽろと溢れた。 「あぁあぁ、泣かないで。おじさんたち困っちゃうよぉ」 「編徴、お前もうすぐ父親だろ。予行練習だ。泣き止ませてやりな」 「そう言う貴方は何年父親やってるんですか」  青藍は泣き笑いをして礼を言う。 「陶班長には本当に感謝しているんです。だから早く成長して、手が掛からないようになりたくて……」  陶の指導は厳しいが的確で、熱心な稽古は終業後にまで及ぶ日も多い。稽古に時間を割いたせいで、遅くまで執務室にいることを青藍は知っていた。そんな陶の期待に応えられないことが、悔しくて堪らなかった。 「まぁ、あいつもさ、悪い奴じゃないんだよ。琴に懸ける想いっつうのかな、楽師として在ることへの想いが人一倍強いんだよな。だから自分は勿論、他人にも厳しくなっちまう……若い頃、色々あったし分かるけどよ」  羽が最後に気になることを呟いたが、青藍はそれについて詳しく尋ねることが出来なかった。他人の過去を詮索するのは良くないように思えたし、何よりも、食堂の前を陶本人が通りかかった為である。 「青藍、いつまで油を売っているつもりだ。見習らしく慎み深い行動をしなさい」 「は、はい、申し訳ありません、すぐに」  怠惰を咎められた青藍は急いで四人分の器を片付ける。改めて三人に礼を言うと、蒸し餅を手に慌ただしく午後の稽古に戻った。
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