紅梅(一)

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紅梅(一)

 一夜明けて、王の予告どおり青藍の周囲は入宮へ向けた準備で俄かに慌ただしくなった。  宮中省や内侍省の高官、女官長や古参の宦官など、青藍は以前の身分であれば生涯無縁であった者達から挨拶を受け、今後の暮らしに関する案内を聞き、幾度も署名をした。  正妃以来、久方振りの入宮とあって、後宮内の管掌に当たる者達は殊更(ことさら)意気が揚がっている様子であった。以前梨花達が言っていた通りに歓迎されているらしいと肌で感じ、青藍は胸を撫で下ろす。  後宮という特殊な場への転入に加え、霊廟への参拝など見知らぬ慣行に気を張る日々。初顔合わせや重要行事が続くからと盛装し紅までさして臨んだので余計に肩が凝ったが、七曜にわたる諸事を無事に乗り切ることが出来て()ずは安堵した。  暇を見つけて労いに訪れた王からは目の保養だと微笑まれ、抱擁や軽い口付けをされて、恥じらいつつ活力が湧いた。正式に後宮へ迎えたことで、これまで以上に掌中の珠の如く(いつく)しまれ面映ゆい。  返答の猶予期間中に準備は万端整えられていたらしく、後宮への家移りは早々と円滑に行われた。  紅梅殿。後宮内に与えられた青藍の住処である。  各殿舎には主の逸話に(ちな)んだ名が付与され、先代からは特に色に関するものを付けるのが慣例となっていると、青藍は宦官の説明を受けた。今回は他に孔雀藍殿なる候補があったが、一先ず素性を公々然とするのは避けた方が良いと判断されたらしい。  紅梅とは遠乗りをして見たあの絶景に由来しているのだろうかと考えて、青藍は胸がくすぐったいような心持がした。同時にその名を酷く愛しいと思う。  入宮に伴い、青藍には新たな姓名が授けられた。韵芳雯(インホウブン)。本来、王に嫁するとて改名の必要はないが、今回は特殊な事情を考慮し、また燕家が王家との繋がりを公にすることを遠慮した為に付与される運びとなったという。  成人となった今春、上長らに(あざな)を決定して貰う約束であったのが諸々の事情により立ち消えとなっていた為、新たに名を授けられたのは青藍にとって喜ばしいことであった。  王や王妃は以前と変わらずに馴染みの名を口にし、普段は韵貴妃殿下などと大層な名で呼ぶ梨花らも、青藍の要望に応じて人目のない時は従来どおりに呼んだ。  正妃ではないので婚儀は執り行われなかった。また、機能し始めたばかりの器官が成熟し月事が安定するまで房事は控えた方が良いという御殿医の指導を王が忠実に守っている為、一度も契りを交わしていない。  殿舎を与えられ侍女がつき、妃教育も開始されたものの、王との関係は以前と殆ど変化がなかった。その現状に、青藍は焦燥感を覚えるどころか心の底では安心していた。 「それだけで恐縮してしまったのですが、王太后殿下が私に琴を習いたいと仰って__」  広々とした寝台に王と枕を並べ、青藍は過日の出来事を語る。寝衣に長髪を括っただけの姿で隣に横臥している王は、寛いだ様子で話を聞いた。  今宵は紅梅殿に泊っていくと告げられ、青藍は気分が(たかぶ)っていた。  朝まで共に過ごすのは、酔って連れ帰られた日以来である。当日と違い、意識がはっきりとしている今日が、実質初めての共寝であった。  普段よりずっと長い時間、二人でいられるのは純粋に嬉しく、あれもこれもと欲張って話し掛けてしまう。今はまだ行為に及ぶことはないと承知しているので気楽なものであった。  入宮初日。青藍は国王、威煌龍の母である王太后の住まう紫根殿に赴き初見参を果たした。  通された場所は謁見の間ではなく、客間であった。部屋の奥に王太后の姿を認めた青藍は、視線を合わさぬよう直ちに座礼する。王姉との面会を思い出しながら、深く(こうべ)を垂れたまま口を噤み許しを待った。卓子に着席している部屋の主は、じっとこちらを観察しているようである。 「……楽にしていただいて結構。発話も許可します」  年齢の割に若々しく張りのある声で王太后が言う。許しを得た青藍は一層深く頭を下げて、旧来の作法に則った長い口上を一言一句違わず述べた。  言い終えて、顔は上げないまま体を起こす。この後は歓迎の言葉を謹んで受け、再度叩頭し暇を告げる流れとなっている。 「韵貴妃はこの場に残り、他の者は下がりなさい」  王太后が双方の侍女達に退室を命じるのを聞いて、青藍は激しく動揺した。 「ねぇ、貴方」 「は、はぃ……」 「お湯が冷めてしまうわ。早く席について頂戴……貴方とは、話したいことが山ほどあるの」  想定外の声掛けに面食らい、青藍は思わず顔を上げる。王太后は何時までそうしているのかという目で此方を見ていた。一人残った王太后の侍女が、主に程近い斜向かいの席に立ち重厚な椅子を引く。青藍は慌てて近寄り腰を下ろした。  初めて間近で相(まみ)えた王太后は、薄化粧ながら五十を過ぎても尚美しい顔をしていた。  印象深い大きな眼に細い鼻すじ、上品な口元。目鼻立ちが整っているのは実子らと同様だが、姉弟の容貌は何方(どちら)かというと先王に似たのだろうなと青藍は思った。  斑白(はんぱく)の豊かな髪を結いあげ、黄金の冠を着けている。小柄な体には黄緑の長衣に白の上衣という、派手やかさはないものの品のある衣装を纏っていた。  侍女の淹れた茶を飲み、勧められた菓子を摘まみながら、青藍は暫し王太后と語らう。先方は義子に関する情報をある程度把握しており、楽師時代の勤めや王との馴れ初めなど青藍は聞かれるままに答えた。  王太后は王族らしく愛想を振り撒くような真似はしないものの、無駄に威を張ることをせず遠慮もなく、単なる良家の義母といった態度である。  その高雅さ故に(かしこ)まることは止めないまま、青藍は少々拍子抜けしつつ心嬉しく思った。  茶杯には梅が枝に止まる美鳥が描かれている。 「__今になって思えば、少しどうかしていたの」  青藍が自身に関する情報を一通り開示したところで、退屈な昔語りをしても良いかと王太后が問うた。青藍は勿論だと頷いて、聞き役に回る。  王太后が語り聞かせたのは、彼女が抱えている後悔についてであった。  曰く、歳若くして正妃の座に就いた王太后は、大国の正妃という重責を果たそうとして頑なになり、次第に孤立を深めていったのだという。後宮の外にまで権力を振るうことが許されていたら、今ごろ悪后として世に名を馳せていただろうと自嘲した。  目の前で静かに茶を口にする淑女からは想像しがたい過去に、青藍は密かに驚く。 「周囲にきつく当たり散らして、悪い后だった。子供達にも随分厳しくしたわね。性根の良さに加えて他の子らと広く親しく交わっていた皇は先王に似て立派に成ったけれど……それでも、少し高潔が過ぎるのは、きっと私のせいなのでしょう。麗夏はまた、私に良くないところが似てしまって……貴方に関しては入宮の打診をした時点で皇から報告があったのだけれど、私嬉しくて麗夏にも話してしまったの。それ自体は別段可笑しな事ではないけれど、まるで昔の私が蘇ったかのような事をしでかして……(もと)を正せば全て私が悪かったの。今は貴方に接見出来ない麗夏に代わり私が謝罪します」  青藍は嘆息する相手への反応に困りながら、首を大きく横に振って恐縮する。王太后が一側妃に謝罪の言葉を口にすべきではない。しかし、良好な関係を築きたいという心持ちの現れだと思うと、何か嬉しいような気もした。  不意に、王太后の表情に深い悲しみが宿った。つられて眉を下げながら、青藍は話の続きを待つ。 「……先王が身罷(みまか)ってしまって……皇が王位を継いで、私、憑き物が落ちたみたいに大人しくなったの。無性に寂しくて毎日泣いて過ごしたわ。そうしてそのうち、今まで邪険にしていた側妃達と悲しみを分かち合いたいと思い始めたの。似た立場の彼女達となら思い出や苦しみを共有出来ると思ったから……」  俯きがちに話していた王太后は、一際寂しげな目をして微苦笑する。 「ところが、私の与り知らぬところで先王が彼女達に退宮を差許(さしゆる)していたのよ。皆、蜘蛛の子を散らすように生家や子の元へ去ってしまった。きっと、王亡き後の私の横暴が怖ろしかったのでしょう。あの時の虚しさといったらなかった……」  声と同様に見た目も若々しい王太后であったが、落ち窪んだ目元にかかる影が後宮で過ごした哀歓の月日を物語っていた。青藍は同情で胸を苦しくしながら吐露を見守る。 「私、本当に後悔して、すっかり心を入れ替えたのよ。それでも、十年経った今も悔悟の念に(さいな)まれているの……長々とごめんなさいね。聞き上手だからつい止まらなくなってしまった。結局伝えたかったのは……そうね、まずはあの子が漸く個の幸せを掴んでくれて嬉しいということ。貴方には私を本当の母のように思って気兼ねなく交わって欲しいということ……琴を教わるのも良いかもしれないわね。私、奏楽は経験がないから。それから……どうか私の様にならないで欲しいということ。世継を産むのは廉綾でなく貴方になるのでしょう。どうか気負わず心穏やかに過ごして欲しいの。称号や立場に呑まれず、振り返った時に悔いのないように」  神妙な顔で頷いた青藍に微笑んだ王太后は、すっと衿を正した。纏う雰囲気で、茶席が謁見の間に様変わりする。突如示された威容にぞくりとしながら、青藍も背筋を伸ばした。 「燕青藍改め韵芳雯、其の方の入宮を歓迎します。無事平穏に貴妃の務めを果たされますよう__」
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