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紅梅(二)
「母は元々桃園の出で唱歌に秀でていたから、琴に関しても覚えが早いやもしれんな」
「そうだったのですね……! はぁ……それは存じ上げませんでした……」
寝台の上、王と向かい合って横臥する青藍は驚きの声を上げて瞠目する。年齢の割に高く美しい声をしていたことを思い出し、その来歴に納得もした。
「桃園の歌い手が大王の御寵愛を受けて正妃の座に就くだなんて、市井の少女が夢見る物語のようで素敵な逸話ですね」
「……まるで他人事の様に言うな。お前も、良く似た境遇だと思うが」
呆れたような声にはっとして頬を熱くする青藍を見て、王はくつくつと笑った。現状把握が漠然としていることが露呈した上、無自覚のうちに自身をも褒めたものだから酷く気恥ずかしい。
ふぅと息を吐いた青藍は、気を取り直して話を続ける。
「……私如きが王太后殿下の御指導に当たるなど恐れ多い事ですが、良い交歓の場になると思うので、改めて御依頼を頂戴した暁にはお引き受けしたいと思っています」
王は宜しく頼むと微笑して、手触りの良い青藍の頬を撫でた。些細な触れ合いで、慣れぬ後宮暮らしでの苦労が報われる。そも、交合に至る訳でもなく、こうして睦み合う為だけに訪れてくれること自体が青藍には心嬉しかった。
「今日は如何過ごした」
「お茶と行儀作法を習いました。毎回、理解度や上達度を確認する考試を受けるので緊張感があって……何だか、楽師時代に戻ったようです。空いた時間は琴を弾いて過ごしました」
利き手を負傷して以降、暫く閑人であった青藍にとって、後宮に越してからの日々は酷く怱怱たるものであったが、同時に充実していた。
王の連添いとして相応しい人間に成るのは、青藍にとって職分であり喜びであった。真新しい知識の吸収は、苦労よりも楽しさが勝って倦むことがない。多岐にわたる内容を身につけるのは決して容易ではないが、青藍は意欲的に取り組んだ。
「尽力に感謝する……実を言うと、今宵訪れたのは日々奮励努力するお前に朗報を伝える為でもある。烝庶の嫁入りには不要の努力を強いている詫び、という訳ではないが……」
珍しく勿体を付ける言い方に青藍は小首を傾げた。満ち足りた日々に感謝こそすれ詫びなど受ける覚えはないが、王が用意しているものの正体に興味はある。
「何でしょう……?」
事有り気に笑うのに焦らされながら、青藍は端正な顔をじっと見つめ返した。珍しい菓子か、未だに叶っていない宝物庫見学であろうかと見当をつけて期待する。
「明後日の下午、陶怡泉楽師を招いている。久方振りに指導を受けると良い」
「……」
思いがけない告知を受け、青藍は大きな眼を限界まで見開いた。高鳴る胸を抑えようと衿元に手をやる。
「陶班長に、お会い出来るのですか……?」
数舜忘れていた呼吸を再開した青藍が絞り出すように発した問いに、優しく笑んだ王が首肯する。青藍は大輪の花が咲いたように表情を輝かせた。
いつの日か臨席を許されるようになった典儀の最中、遠目に見るのが精々かと思っていた相手に早くも再会が叶う事実に胸が高鳴り続ける。涙が出そうな程に嬉しかった。
「有難うございます、煌龍様……!」
感極まり声が上ずる。
陶には対面して深謝すべきことが山の様にある。気になっていた皆の近況が聞けるかも知れないのは幸いであった。琴の指導を受けられるのも勿論嬉しい。未だ若輩の身、一人での修練には早くも限界を感じていた。
「入宮前に父君との面会の場を設けてやれなかったからな。代人を立てたという訳でもないが、不自由な日々の中で少しでも息抜きになれば嬉しく思う」
「煌龍様……」
高配に胸が詰まった青藍は、吐息混じりに王の名を口にした。入宮間もない側妃が血縁でもない男と面会するなど、本来であれば望むことすら許されない禁制の筈である。
「生家に居た頃を思えば、後宮での暮らしに少しの不自由も感じません。お気遣いに感謝します…………はぁ、すっかり目が冴えてしまいました。今夜は眠れそうにありません……」
それまで王を向いて横臥していた青藍は、溜息とともに体の向きを変え、高い天井を見た。俄かには信じがたい出来事に頭がくらくらとする。
「……陶班長、今の私の姿を見たら奇妙に思わないでしょうか……正直なところ、華美な衣装でお会いするのは面映ゆいです」
「初めは互いに違和感を覚えるだろうが、回を重ねる内に慣れる」
「そ……えっ、この先も機会を頂けるのですか……!」
再びごろりと横臥して言う青藍に、王は苦笑した。
「その積りだ……そこまで嬉しい顔をされると、敬慕の念だと承知していても少し妬けるな」
勢い余って先程までより近付いた顔。手を伸ばし、柔らかな頬をごく軽く摘まんで王が言う。くすぐったさを覚えつつ、青藍は浮かれ過ぎたかとはにかんだ。
「陶班長は楽師諸兄の中で一等お慕いしている方なので……それに、煌龍様のお気持ちが嬉しかったのです…………ああ、腕が落ちたと失望されないと良いのですが……明日一日浚うだけで間に合うでしょうか、ずっと琴に向かっている訳にもいかないのに……」
青藍は細首を王とは逆側へ捻った。視線の先にある卓子には、横になる前に王へ聴かせた琴が載っている。
「琴は明日だ。これ以上夜を更かしては明日に響く」
再度苦笑した王は、今にも寝台を抜け出して琴の調弦を始めそうな青藍の肌掛けを、さっと首元まで引き上げた。
王が照明の火を消しに立つのを目で追い、再び視線を真上へ向けた青藍は、陶に弾奏を見てもらうのはいつ振りであろうかと指を折った。
雪の降る正月前に怪我をしたので、三月は経過していることになる。季節は進んで今や初夏。早いものだと驚いた。
常夜灯の仄かな灯りの中、隣で目を閉じている偉丈夫の鼻筋の通った横顔を眺めながら、青藍は貴重な機会を無駄にしないよう励まねばと強く心に思う。
幸福に口元が緩んだ。前世でどれ程の徳を積めばこれ程の果報者になり得るのか、怖ろしい様な気さえ起こる。美しく安らかな寝顔を見ていると次第に眠気が伝染し、興奮で一睡も出来ないだろうという心配は杞憂に終わった。
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