紅梅(三)

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紅梅(三)

 王から告知を受けた翌々日の下午、紅梅殿を出た青藍は陶との面会を果たした。  退寮以降、漸く訪れたまともな対面の機会に胸が詰まり目に涙を浮かべたのも束の間、貴人に相対するように拱手をされ、青藍は色を失った。当然の対応であると理解はしても、隔たりを感じて心寂しい。  中央に置かれた重厚な卓子と二脚の椅子。奥行二尺少々の上に向かい合って二張の琴が用意されている。部屋には侍女らの他に五名もの立会人がおり、師弟の行動に目を光らせていた。青藍は助けを求めるように立会人らへ問い掛ける。 「今この時間だけは、陶楽師殿に以前と変わらぬ態度で接していただきたいのですが、構いませんか。師父のようにお慕いしている方から拝礼を受けるのは、如何(どう)にも耐え難いのです……」 「……貴妃殿下の望まれます通りに」 「勝手を申して済みません。有難うございます」  年嵩の官人から許可を得た青藍は、安堵して笑顔になった。  他人がいる手前、雅楽団に在籍していた頃と違い地声で話しているが、衣装は白地の一等地味なものを選び、髪も団子状に結ったのみの地味な恰好で参上している。貴重な旧知の人間とは、可能な限り以前と同様の付き合いを続けたかった。  二張の琴を挟んで真向いの席に着く。稽古を始める前、青藍は陶に与えた諸々の迷惑に関して深謝した。陶は青藍の思いを受け入れつつ、結局は自分の意思でしたことであるから憂慮は不要だと言った。青藍はその広量に痛み入りながら、尊敬の念を強くする。  八月舎の様子を伺えば、皆変わりなく息災に過ごしているというので再び安堵した。  不意に、陶が何処か遠くを見るような目をする。己と過ごした日々を追想しているのだろうかと青藍はその心情を(おもんばか)った。ややあって、陶は他ではあまり見せることの無いであろう、柔らかな微苦笑を浮かべて青藍と目を見交わす。 「この歳になって子育ての苦楽を味わうことになるとは想像だにしなかったが、良い経験をさせてもらったと思う。正月までは共に過ごしていたというのに、今や遠い昔の出来事の様だ……」  陶が懐古の情に眼を細めた。つられた青藍も寂しげに微笑む。  楽師の端くれとして研鑽(けんさん)を積んだ日々は、青藍の中で未だ鮮やかで恋しく、ふと当時に戻りたくなる時すらある。しかし、口にしても詮無いことで、自身を歓迎してくれた面々を不快にさせる可能性すらあると考え、誰にも打ち明けたことはない。  今、陶と二人きりであれば或いは零すこともあり得たが、他人の目がある中で口外するのは、やはり憚られた。 「新しい暮らしには慣れたか」  穏やかな声音で陶が言う。芸事や職務に関しては国中の楽師の中で恐らく一番に峻厳であるが、本来は心のある人物である。青藍は小さく微笑んだ。 「皆さんとても良くしてくださるので、徐々に馴染んできました。学ぶことが多く、日々励んでいます」 「そうか、お前は勤勉で忍耐強い。きっと良い妃に成るだろう」 「……そう仰っていただけると嬉しいです。私の様な異質の者に務まるのかと、不安に襲われる時があるので__」  思わず口を()いて出た本音に、青藍はぎくりとして顔を強張らせる。観月台で見た兄のものと重なる陶の温柔な眼が調子を狂わせたのか、無事にやれていると安心させる積りが不安を口にしてしまった。  卑屈になっている暇はないと日々精進して自信を付けている。それでも、異形の体や普通とは言い難い生い立ちから生じる引け目については解消のしようがなかった。  郷里にいた頃は窮屈に、楽師時代は不便に思うだけであったのが、入宮を機に己の特殊性に関して心慮を悩ますようになる。 「折角の機会だ。密かに懊悩(おうのう)している事があるのなら話してみなさい。私であれば打ち明けやすい事もあるだろう」 「陶班長……」  凪いだ水面の様に落ち着きのある眼。眼差しを真っすぐに向けられ慈愛を注がれた青藍は、細い肩を窄めながら、漠然と抱えている不安の一部をたどたどしい口調で語り始めた。  幼少期からこれまで愛情が不足していたとは思わず、無為徒食の身でありながら良い暮らしをさせて貰ったことに感謝もしている。  しかし、改装した蔵の中という狭く特殊な世界で成長した自分が、大国の第一側妃として恥ずかしくない人物に成れるのか。例えば子を授かった時にうまく養育出来るのか等……都で過ごした二年と少々の月日は、これらの不安に打ち勝つ自信をつけるには短かった。 「__要するに、風変りな身で後宮に順応出来るのか不安なのです。体のつくりや過去は努力で如何なるものではないでしょう……?」  若しかすると今この場で口にした事は全て上……内容如何では王にまで報告されるのかも知れないとは思いつつ、青藍は頼りにしている元上長への甘えを抑えられなかった。 「そうだな……悩みのうち一つだけ、直ちに解消してやれる事がある。何時だったか、お前は私を父のようだと言ったな」  要領を得ない話にじっと耳を傾けていた陶が、何か黙考した後で微かに笑んで言う。青藍は二人で市へ出掛けた時のことを思い出していた。確かに話した記憶がある。陶が微苦笑した。 「……実際はとんでもない。羽舞師あたりから聞かされているかも知れないが、私はその昔、生まれて間もない唯一の我が子を手放しているのだ。事情があったとはいえ、二人で生きる道を模索する事もしなかった……斯様(かよう)に薄情な過去を持つにも拘らず、それらしく在れた私をお前は間近で見てきたのだ。何を怖れることがある」  独り身らしいことは承知していたが、妻子が有ったことは初めて知る事実である。青藍は密かに衝撃を受けながら、愉快ではない過去を告白させたことを心苦しく思い、その励ましに勇気付けられた。 「人は思いの外柔靭な生き物だから、置かれた状況に合わせて如何様(いかよう)にも変化出来る……そう案ずる必要はない。大抵の不安や危機は、いつの間にか去ってしまうものだ。私も様々な困苦を()めてきたが、今では総じて良い人生だったと思っている。お前も、右の手を負傷した際に絶望の淵にいたのが、今では大王陛下の寵を得て満ち足りた日々を送れているだろう」  青藍は微笑を浮かべて頷く。様々な経験を経てきたであろう年長者の言には説得力があった。不安を吐露する前より心が軽くなったように感じる。  その後、青藍は一刻近く琴に向かい熱心な指導を受けた。  稽古が始まるまでは此方の調子が狂うほどに優しく穏やかな態度の陶であったが、楽師時代を思い出す厳しい指導に、青藍も気張って七弦を爪弾き続ける。  負傷したうえ一人での修練を余儀なくされていた身に、的確な指導が干天の慈雨の如く染み入った。侍女や官人の存在をすっかり忘れ、青藍は暫し琴の世界に没入する。
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