紅梅(四)

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紅梅(四)

「本日はお忙しい中ご指導にお越しくださり、本当に有難うございました」  稽古終わり、青藍は深々と頭を下げた。手放さざるを得なかった懐かしく輝かしい時に、束の間帰ることが出来た。青藍の中に満足感と寂寥感が同時に起こり、僅かに寂しさが勝った。  それまで微動だにしなかった官人の一人、扉の側に控えていた者が退室した。陶との別れが近付いている気配を感じる。再会は何時(いつ)になるのだろうと気の早いこと思いながら、青藍は実の親より多く見た顔形をその目に焼き付けた。  時を置かずに席を外した官人が戻る。手には漆塗りの角盆を捧げ持っており、絹布(けんぷ)に包まれた細長い箱が二つ並んで載っていた。青藍はその内一つについて心当たりがあったが、一回り小さな物に関しては覚えがなかった。  静かな足取りで此方へ歩み寄ってきた官人は、陶の傍らへ立ち盆を差し出した。  右の物をと言われた陶は、一礼して恭しく受け取る。 「貴妃殿下より雅楽団楽師諸兄へ宛てられた玉簡に御座います」  木箱に収められ絹布まで巻かれている為に判り辛かったが、青藍の想像通りの品であった。玉簡とは空恥ずかしい響きがする。  急いで(したた)めて検閲に出したものが無事許されたらしい。雅楽団を離れるに至った経緯や近況については伏せる事の方が多かったものの、世話になった礼と突然去って義理を欠いた詫びに関しては筆を尽くした。 「皆さんには直接会ってお礼を申し上げたかったのですけれど……代わりに筆を執りました。御足労いただいた上にお願い事をして恐縮なのですが、お預けしても宜しいですか」  眉尻を下げて言う青藍に陶が頷いた。 「明朝一番に公開しよう。さて__」  官人が青藍の傍らへと近付き、残りの品を載せた盆を差し出す。絹布に包まれた、掌より少々長さのある細い小箱らしきもの。  正体に見当が付かないまま、青藍は頭を下げて緊張気味に受け取った。重みは然程感じられない。良い絹糸が手に入ったのを分けてくれる積りだろうかと、青藍は小首を傾げる。 「私からのごく(ささ)やかな祝儀だ。改めて、貴妃殿下の万福を祈念申し上げる」  驚いて幼子のように目をきらきらとさせた青藍は、無作法だとは承知しつつ、この場で開けても良いかと尋ねた。中身が気になったというのもあるが、今を逃すと感想を伝える機会が何時になるか分からない。  陶が首を縦に振るのを見て、青藍は胸を高鳴らせながら丁寧に布を開いていく。絹布の中から現れたのは朱塗りの薄く細長い箱であった。琴の弦を入れるには仰々しいように感じつつ、そっと蓋を持ち上げる。 「え……」  目に飛び込んだのは全く予想外の品で、青藍は思わず息を呑んだ。  筐底(きょうてい)に敷かれた柔らかな濃緋の上に納まっていたのは、上等な白銀の(かんざし)である。花の形に加工した光沢のある白い貝片や真珠等があしらわれ、見る者の目を引いた。  入っている物が絹糸でも勿論のこと嬉しかったが、奏楽と無関係の贈品は殊更青藍を驚き喜ばせた。慎ましやかで美しい簪は青藍でも身に着けやすく、挿すのに場所や時を選ばぬように見える。 「有難うございます、陶班長。とても美しい簪ですね」  満面の笑みで興奮を隠せない青藍に対し、陶は気まずそうに苦笑を浮かべた。 「金子を贈るのは不相応なので物にした。簪だからといって妙な意味がないのは言うまでもないことだが、実を言うと、そも、その簪は今日の為に買い求めた品ではない。市へ出る暇がなくてな……」  弦楽班の長として多忙な陶が気軽に門の外へ出られないことは重々承知しているが、それでは一体どういった品であろうかと青藍は不思議がる。陶は静かに目を伏せて青藍の手元を見た。 「それは……今から十五年程前、娘が産まれた頃に市で見かけて惹かれ、長じた時……成人を迎えた時か、嫁入りの際に贈ろうと買い求めた品だ」  諸般の事情により娘は嬰児(えいじ)の内に里子へ出したが、養い親への遠慮から簪を託すことはせず捨てるのも躊躇われ、小箱の中で眠ったまま一度も使われることなく今日に至ったらしい。綺麗なものだろうと陶は力なく笑った。 「久方振りに取り出してみて、お前に似合うのではないかと思い持参した。素人目には悪くない品に見えるが、所詮は小身者が市で手に入れた品物。金枝玉葉が身につけるのに相応しくないやもしれん。買い求めた経緯も含めて、気に入らなければ遠慮なく打ち捨てて貰って構わない」  青藍はとんでもないと首を振った。あれだけ迷惑を重ねたというのに、疎んずることなく祝福してくれようとする気持ちが打ち震える程に嬉しい。その上、用意されたのは別れた子に纏わる貴重な思い出の品であるという。捨てずに取り置いていた思いの籠った品を、息女に代わり譲り受けることが出来て光栄だとすら思った。 「今、着けてみても良いですか」  青藍の言葉を受け、それまで静かに待機していた侍女のうち二人が壁際から此方へやって来た。一つに纏めていた髪の一部を解いて下ろし、主人から受け取った簪を結い髪に挿し込む。  如何だろうと陶の反応を見て吃驚する。目に涙が浮いていた。 「似合っている……ああ、歳を取るといかんな……」  青藍の目にも見る見るうちに涙が溜まっていく。陶の胸の内を思い、ぽろぽろと笑い泣いた。 「有難うございます。後生大事にいたします」  入団考試初日、大楽署二階に設けられた会場。西の隣でにこりともせず、此方は緊張で硬くなっていたのが最初の出会いであった。それが今、紆余曲折を経て二人泣き合っている。人生とは本当にどう運ぶか分からないものだと、青藍は鼻の頭を赤くして笑いながら思った。  翌日の晩、陶との面会を振り返り感慨に耽っていた青藍のもとへ王の来訪があった。この日は顔を見に訪れただけだと言うので、寝衣姿の二人は長椅子に並んで座り睦まじく語り合う。  青藍は先ず稽古の場を設けてくれた事に対して礼を言い、興奮気味に昨日の出来事を語った。少婦が瑞々しい表情で話すのを、王は穏やかに笑んで聞く。  件の簪を見てみたいと言われ、青藍はいそいそと鏡台がある部屋へ向かった。華奢な簪を受け取った王はしげしげと見て、丁寧な細工を賞美する。 「……以前聞いた見習時代の出来事やこの簪に関する話から察するに、陶楽師はお前のことを実子の様に慈しんで来たのだろうな」  王の言葉に、青藍は見開いた瞳を輝かせた。 「煌龍様もそう思われますか? 私、この簪を贈ってくださったそのお気持ちが本当に嬉しくて……でも、少しだけ寂しくも思ったのです。祝儀を頂戴して泣き合って、皆様へ文を送ったことで、楽師として在った時代に一区切りがついたような……そんな心持ちがして……」  涙で視界の霞む中、青藍の脳裏へ八月舎で共に過ごした面々の姿が過った。陶、孫に羽、編徴、大角、その他大勢の楽師達……いよいよ青春の幕が閉じ、楽師燕青藍が彼らと本当の別れを迎えたように感じた。  大きな手で肩を抱き寄せられた青藍は、つるりと白い額にそっと唇を当てられ、一滴(ひとしずく)涙を零す。明るい照明の中、簪の花や真珠が、寂しさに震える心を慰めるかの如く優しい光沢を放っていた。
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