花燭(一)

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花燭(一)

「韵貴妃殿下に()かれましては、近頃は月事の巡りも安定しておられますので、本日より房事の禁を解かせていただきたく存じます」  担当医の恭しい告知に、同席していた女官長が懐妊の報せを受けたかのように相好を崩した。当の本人、韵芳雯こと燕青藍は、何処かぎこちなく口端を上げたのみである。ここ暫く不順が解消されていたのでそろそろかと予感はしていたが、いざ告知を受けると緊張が走った。  瞳の色に似た鮮やかな藍の衣装を纏った膝の上、重ねた手に自ずと力が入る。  国王夫妻の間に世継の居ない大国にあって、側妃としての重要な務めを漸く果たすことが出来る。本来であれば泣いて喜ぶべき決定である。相手が市井(しせい)の民であったとしても、男盛りの良人に嫁して半年近くも事に及ばずにいるのは異常な事であると、性愛に疎い青藍でも認識はしている。  しかし、これ程までに長く与えられても尚、青藍は猶予期間の終了を惜しく感じた。  入宮より此の方、継続して妃嬪教育を受けている青藍であったが、房事については王の意向により指南を免れている。  交接して精を受ければ身籠るという、幼少の(みぎり)に兄から教わった最低限の知識しか有していない青藍は、交合に少しの憧れも期待も抱いていない。あるのは未知の行為に対する不安と恐れのみである。  八月舎にいた頃に耐性をつけておくべきであったが、楽師達がその類の話を聞かせることはなかった。  身を守る為に長らく忌避すべき事柄であったのを、長じて解禁されても突如として積極的にはなれない。王と交わす口付けや触れ合いは心地良いが、此方の体を(さら)しての行為は気後れする。これも房事に対して気乗りしない理由の一つであった。  少しの抵抗もなく裸体を曝し合うことが出来る世の人達に、近頃は妙な尊敬の念すら抱いている。しかし、ついに己の身にもその時が訪れた。青藍は思わず小さな溜息を吐いたが、安堵の息と捉えられたらしく不審な顔はされなかった。 「心よりお祝い申し上げます、貴妃殿下」 「私も大変嬉しく思います。これまで格別の御配慮をいただき有難うございました……」  にこやかな女官長に、青藍は曖昧な微笑を浮かべて礼を言う。残暑を越えた、爽やかな秋晴れの日であった。  毎朝の勤めである霊廟への参拝を終えた青藍は、侍女を伴って回廊を歩きながら、香の匂いに紛れて何処からか微かに漂う甘い桂花の香りに目を細めた。  昨日までは感じなかったので、今日になって花開いたのだろうかと思う。百里先まで香りが届くというが、八月舎の皆もこの芳香に気付いているだろうかと思いを馳せた。 「韵貴妃」  参拝は王太后、正妃、側妃の順に行う決まりになっている。とうに住処へ戻った筈の王太后に遠くから名を呼ばれた青藍は、側妃にしては低く慎ましやかに纏めた髪へ挿した歩揺をシャラシャラとさせながら足早に近寄った。慌てた為に珊瑚色の柔らかな裾に足を取られかけたのを見て、軽く(たしな)められる。  聞けば、良い茶葉が入ったので試飲に誘おうとして此処で待っていたのだと言う。明日の予定であった琴の稽古も一緒に済ませてしまおうと言われ、青藍は微笑んで快諾した。  王妃でありながら(まつりごと)に携わっている廉綾は、上午の執務に関する準備がある為、早々と帰途に就いたらしい。毎朝早くから忙しくしている正妃に、青藍は頭の下がる思いであった。王妃とは七曜に一度は昼食を共にし、時折酒席にも呼ばれている。此方とも関係は良好であった。  通い慣れた紫根殿の応接間にて、青藍は香り立つ茶と愛らしい菓子を振る舞われた。 「それで、新枕は無事に交わしましたか」  体の調子が万全になり房事が解禁された事は、当然のこと王太后の耳にも入っている筈である。心構えがあったので直接的な問いに別段驚きはしない青藍であったが、困ったような微苦笑を浮かべた。 「それが……この頃、陛下は御多忙らしく、そも、お出でにならないのです。最後にお会いしたのは御医者様のお許しが出るより前でしたので……」  許可が下りた当夜には事に及ぶものかと身構えていた青藍は、肩透かしを食らっていた。日々緊張は増すばかりで、今直ぐにでも止めを刺して欲しいと色気のない事を考えている。  子供の頃、指に刺さった棘を目の前で処置されるのが恐ろしく、寝ている間に抜いてくれと兄に頼んだことがあった。そんな風には出来ないものだろうかと、つい馬鹿げたことを夢想してしまう。  王太后は嘆かわしいといった様子で溜息を吐いた。 「如何してあの子はこうも淡泊なのかしら……漸く迎えた花盛りの側妃を房事が許された今、幾日も放っておくだなんて……貴方たち、遡れば入宮の際だって何もしていないでしょう。側妃だって、国によっては正妃同様に婚儀を執り行うものなのよ。先王は婚儀こそ行わなかったけれど、賀宴は盛大に開いていたわ……当時の私はそれさえ面白くなかったのだけど……」  渋面(じゅうめん)を作りながらも、花を摘むかの如く優雅な所作で茶杯を手に取る王太后に、青藍は微苦笑した。 「私は目立つことが得意ではないので……陛下も御配慮くださったのだと思います」  少しの不満もない青藍に対し、柳眉を顰めた王太后は不満を隠そうともせずに言う。 「順良は美徳というけれど、大人し過ぎるのも考えものよ。蕭然(しょうぜん)としているとはいえ、此処は後宮ですもの。貴方にはもっと貪婪(どんらん)で居てもらわないと困るわ。あの子もすっかり欲が薄れてしまっているようだし、情けを受けられるよう偶には貴方から積極的に仕掛けてみては如何かしら。私に出来ることがあれば言って頂戴。早く新しい孫の顔が見たいの……あら、このお菓子、初めてだけれど悪くないわね。桃の形も縁起が良くていいわ」  皮と白餡に桃が練り込まれた小ぶりな饅頭。上品に口へ運ぶ王太后をぼんやりと眺めた青藍は、自身も甘く蕩けるような菓子を口に入れ、もそもそと顎を動かした。
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