花燭(二)

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花燭(二)

 紅梅殿へと戻った青藍は、土産に持たされた桃餡の菓子を一つ手に取り眺めつつ思考を巡らせる。一頻り夜伽(よとぎ)への不安を募らせた後で、王太后の言を反芻した。  入宮に際して官人達から膨大な説明を受ける中、側妃は婚儀を執り行わない決りになっていると言われ、特に疑問を抱かなかった。  むしろ、大儀な行事を一つ免れて有難いと感じたくらいである。代わりの宴席がないのにも心底から安堵した。婚儀であれば婚礼用の装いで殆ど顔が隠せるが、妃の披露が目的の宴席では大勢へ顔貌を曝す羽目になる。  後宮へ加わる以前、夜更けに執務着姿で部屋を訪れた王に一時寝台を譲った時。他人へ見せびらかしたくないと零された記憶は青藍の中に今も印象強く、派手を好む質ではないように見受けられる王も自身と同様に婚儀やそれに準ずる催しに興味がないものと思い込んでいた。  しかし、風変りな側妃が悪目立ちしないよう、仕方なく取り止めたのだとしたら申し訳ないことをしたと、今頃になって思い至る。  その件は既に済んだ話であるとしても、偶には自分から王を喜ばせる事が出来ないものかと青藍は思った。いつも少婦を良い気分にさせる一方では、王とて面白くないだろう。受け身なばかりでは考えものだという王太后の言は尤もである。  奏楽以外で人を喜ばせたいと思うのは、青藍にとってあまり経験のない事である。土産を買うことが精々といった具合であった。直ぐに良い案が浮かぶ筈もなく、暫く無為に時を過ごす。  自身に関することで王が喜ぶ顔が見たい……舞台衣装や王妃より下賜(かし)された衣を見た時の、甘く蕩けるような思いのする微笑が浮かび口元が緩む。  ああ、そうだと青藍は一つの案を思いつく。実現が可能であるか、可能であれば相談に乗ってはくれないか梨花らに尋ねてみようと考えた。(ささ)やかではあるが、王を喜ばせることは出来るだろう。長らく待たせた良人に、形だけでも夜伽に積極的な姿勢を見せたい。  苦手意識を抱えているのは飽くまで行為そのものに対してであり、威煌龍と(つが)う事を忌避したいというのではない。存分過ぎる程に猶予期間は与えられたのだから、腹を括って向き合わなければならないと思う。  青藍は三つ指で挟んだままぼんやりと眺めていた菓子を漸く口に運んだ。甘く濃厚な桃の香りが一杯に広がる。独り占めするのは勿体なく、古くなる前に食べてしまった方が良いと、隣室に待機していた侍女らを呼び寄せこっそりと分け与えた。  上等の菓子に思わず満面の笑みになる女官達を見て青藍も微笑む。 「貴妃殿下はいつも穏やかで優しくていらっしゃるので、お仕え出来て本当に嬉しく思います」 「……私の方こそ、皆さんが良く支えてくださるのでどうにか馴染めているのです。日々の忠勤に感謝します」  歳若い侍女に純粋な思いを伝えられた青藍は、思いがけず掛けられた嬉しい言葉に息を呑み、心からの謝意を述べた。  初顔合わせの際その人数に眩暈がした侍女達には、王妃を模範としつつ自分なりに接してきたが、上手く関係を築けているらしい。  青藍は安堵の笑みを浮かべ、恐縮する相手の緊張を解いた。 「あの……私は側妃教育で房事についての教えが省かれているのですが、廉綾様はやはり受けられましたか」  微酔をやや超えた青藍は、これまで薄っすらと気になっていたものの、口にするのは慎みがなく感じて訊けなかった疑問を、大した躊躇いもなく発していた。  王妃の住処である緋金錦(ひごんき)殿の一室にて定期的に開かれている小宴の席。  王妃は不快さを微塵も出すことなく微笑んだ。梨花は口元に手を当てて驚き、長春は器用なことに驚きと興奮、喜色の入り交じった表情をして此方を見ている。 「房事の指南ですか……当時、正妃教育の一環で一通り受けましたけれど。如何して気にされるのです」  優雅に笑んで言われ、青藍は酒杯を持つ手をもじもじとさせた。 「ええと、私はまだ……その、経験がないのですが、今からでも受けておいた方が良いと思われますか」  酒類や肴で賑やかな卓子。正面の席に座る正妃は濃い紅を引いた美しい唇を結んで僅かに思案した後、懇切丁寧に答えた。 「為になる知識も確かにありますが、(しとね)での仰々しい作法であったり、殿方を享楽させる手法等も多く聞かされますから……恐らく陛下は、そういった事を耳に入れたくないのではないかしら。大事にしている貴方から畏まった奉仕を受けたい訳はないでしょうし」  青藍は自ら問うておきながら、王妃の口から飛び出た語句に反応して、酒で色付いた頬を更に赤く染めた。交合に相手を楽しませる工程が存在するのかと驚いたものの、流石に口を噤む。 「月並みな発想ですけど、新雪に最初の足跡を残したいんじゃないでしょうか。この世に青藍様ほど純潔を守られている方はいないでしょう? 陛下も若く健康的な殿方ですからね……」  美しい顔に低俗な笑みを浮かべて言う長春に、王妃は苦笑して見せた。林檎酒で喉を潤していた梨花は軽く呆れ顔をすると、長春に比べ小振りな口を開く。 「思い出したくもない記憶でしょうけれど、青藍様、初めて月事を迎えられた際に体を検められて嫌な思いをされたでしょう……? 房事の指南で実際に体を使うことはないとしても、再び居た堪れない思いをさせてしまうことを憂慮されての御判断ではないかと、私は思います」 「つまり、青藍様をこの上なく愛されているということです。何も心配されずにお任せしたら良いんですよ」 「はぁ……」  青藍は居心地悪そうに肩を窄めて照れながら、ちびりと酒杯に口をつける。何か他に聞くことがあったように思うが、酒の回った頭はついに思い出すことなく宴の終わりを迎えた。 「今宵も皆様のお陰で楽しい時を過ごすことが出来ました。お休みなさいませ。良い夜を」  迎えにやって来た侍女の天香と共に頭を下げて、青藍は小宴の開かれていた王妃の私室を辞した。  酒量を覚えた今となっては、酔いはしても自身の足で難なく住処まで帰ることが出来る。今日は少々飲み過ぎただろうかと思う青藍であったが、妙な浮遊感があり床を踏む感覚は鈍いものの、足運びに問題はない。  扉の無い部屋を出て幅広の回廊を歩く。右手の空に浮かぶ月を見上げ、王に抱かれて王宮へと帰った日を思い出し少々寂しく思った。  部屋から三十尺ほど離れた所で、装飾の美しい照明を提げた侍女らが不意に目配せを交わし合い、立ち止まる。ただふわふわと歩いていた青藍は慌てて歩みを止めた。 「殿下、なるべく早くお耳に入れておいた方が良いかと思い、この様な場所で失礼いたします」  青藍は小首を傾げる。酒の回った頭は思ったより大袈裟に傾いた。 「先程、大王陛下が使者を遣わされまして、殿下宛てに言伝をお預かりしております。内容は__」 「王妃殿下……!」 「青藍様、何かお忘れ物ですか?」  寝衣の上に羽織った淡く大柄の上衣をひらひらとさせながら慌てて引き返してきた青藍に、自身の金属杯に新たな一杯を注いでいた長春が手を止め問うた。  正面の席に着く王妃は鷹揚(おうよう)に酒杯を置き、体を捻ってこちらを見た梨花は早くも腰を浮かせている。 「いえ……陛下から私宛に言伝がありまして……」  皆の注目を一身に浴びた青藍は、緊張と喜びがない交ぜになった不自然な笑みを浮かべて言った。 「明後日の夜、逢瀬のお誘いを受けました」
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