花燭(三)

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花燭(三)

 この日、城中の片隅にある客舎は国主によって貸切られているらしく、以前訪れた時と同様に投宿者の姿はなかった。  梨花や長春らの手を借り召替を済ませた青藍は、自身の侍女達に両の手を引かれ、長い裾を持たれて庭へと移動する。  王妃から恒例の小宴に招かれた晩。王から逢瀬の求めを受けた事を知り、慌てて三名の元へ引き返した青藍は、日中に考え浮かんだ案について相談していた。  美しい衣装を纏い現れ、王を驚喜させたい__結局、青藍に思いついた事はそれ以外になかった。  当初は盛装して床入りに臨もうと考えていたものの、初夜に着るべき寝衣が既にあると聞かされ、一度外で会うのならその際に着るのが良いと言われた。  豪華な衣装を着ていては脱ぐのに手間取るでしょうと長春に笑われ赤くなったのが記憶に新しい。  言伝では逢瀬の時刻と場所に関してのみ言及があったが、その後新枕を交わす運びになると侍女より話があり、流石の青藍も当然の流れであろうと承知する。  王妃の計らいにより、梨花と長春を二日間自由に使役する権利を得た。王妃の衣装管理や着付けを担当する梨花と、化粧や髪結いを任されている長春。心強い二人の女官は、親しい側妃の為に持てる力を合わせて比類なき傾城(けいせい)を生み出した。  短時間で衣装を決定し、手配や調整に苦労した長春はやや疲れた顔をしていたが、着付けをし終えた二人は何か込み上げるものがある様子で青藍を見送った。  入団考試の際に投宿した客舎の庭園。王が指定した逢瀬の場所は懐かしい出会いの場であった。  火急の用を済ませるため少々遅れてやって来るという良人。侍女に手を引かれて辿り着いた東屋(あずまや)の長椅子にゆっくりと腰掛けた青藍は、どうか焦らずに来て欲しいと気を揉んだ。  優先すべきは側妃との逢瀬より国事である。王に限って要らぬ心配だとは思うものの、夜の(とばり)が下りた今、慌てて怪我でもすれば大事である。  召替を終え建物を出る直前のこと。許しの言葉があるまで目を閉じているようにとの指示があった。理由は明かされず、青藍は奇妙に思いつつ素直に従う。  東屋の周囲に大勢の人間が行き来している気配を感じる。特に、宿舎とは反対側に多いように思った。抑えられた話し声は微かに届くのみで、内容を聞き取ることは出来ない。  裾の乱れ等を直した侍女達は、主を一人残して早々に去っていく。手持無沙汰になった青藍は王の到着を待つ間、持ち込んだ小琴を奏で始めた。この場所に再来が叶うのなら、是非とも再びこの琴を奏でたいと思っていた。密かな願いが叶い心嬉しい。  先日、陶から三度目の個人指導を受けた際に習った曲を爪弾く。東屋から広がる音の響きが、青藍に当夜を思い出させた。陶から指導を受けた曲、思い浮かんだ曲を一通り弾き終えた青藍は、ふぅと一息つくと、取って置きの曲に取り掛かる。  郷里から昨日届いた文を思い出しつつ選んだのは、若き日の伯老師が手遊(てすさ)びに作り人知れず奏でていた()の名曲。哀切を帯びた旋律を弾いていると、どういう訳か無性に心寂しくなった。 「__青藍、遅れて済まなかった。随分と待たせてしまったな」  余韻が消えるのと殆ど同時に己を呼ぶのは、七曜振りに聞く愛しい声。目を閉じての奏楽に集中しており、また薄衣で顔を覆っている為に、眼前まで近づく気配に気付かなかった。 「琴を奏でていたらあっという間でした……お顔を見てお話ししても良いですか?」  青藍は律儀に瞼を閉じたまま、顔を上げて問うた。今暫く待っていろと返事があり、嗅ぎ慣れた芳香が鼻孔をくすぐる。酷く丁寧な手つきで、顔を覆っていた赤の薄布を頭の後ろへ送られた。  長春の手により丹念に化粧が施された玉貌(ぎょくぼう)。普段の清純な魅力はなりを潜め、今宵妖しいまでの美しさを放っている。腕が鳴ると言いながら、額に施された朱色の花鈿(かでん)。驚くほど繊細に描かれた紋様は、鳳凰の姿を模していた。 「さぁ、目を開けて、その美しい顔を良く見せてくれ」 「…………」  睫毛の長い瞼を開いた青藍は、思わず声を失った。  目の前に立つのは、国主で良人である威煌龍。黒を基調とした精悍で格式高い衣装に身を包んでいる。長脚(ちょうきゃく)()を穿いた出で立ちは馬で駆け付ける為か。余程急いで来たと見え、額には珍しく汗が浮いていた。  漸く会えた愛しい良人。しかし、青藍の視線はその姿を通り越し、彼の背負う光景に釘付けであった。紅を引いた口からは溜息が零れる。  暫く固まっていた青藍は、驚きに目を見開いたまま眼前に立つ王を見た。視線がかち合った偉丈夫は、深い寵愛を感じさせる眼差しを青藍へ向ける。東屋の各柱に設置された長大な蝋燭によって照らされた顔は、陰影により唯でさえはっきりとした目鼻立ちが強調されていた。 「気に入って貰えただろうか」  二人きりの庭園。風の無い夜、辺りは静寂に包まれている。  朱塗りの東屋から客舎を背にして望む一面の木々。花盛りであったあの日と違い、梅や白木蓮には一つも花がない。しかし、当夜の光景に少しも見劣りしていなかった。  紅葉前の葉が茂る木々を飾り立てる、無数の小さな紙灯篭。木の種類毎に少しずつ色を変えている手の込みようであった。花々が発光しているかの如く見え、さながら青藍が空想する夜の天上界のように幻想的な光景である。 「以前お連れいただいた山の断崖から望む佳景も素晴らしかったですが、こちらも大変心躍る眺めで、美しさに目が眩みそうです」  大きな目を細め、心底から楽しんでいる様子の青藍。石畳へ片膝をつき目線を合わせた王は、ほっそりと白く滑らかなその手を取り微笑んだ。 「携わった者達は実に良い働きをしてくれたが、俺にはお前の方が余程美しく見える……確か燕仙姑(せんこ)と呼ばれていたのだったか。あの日舞台上の姿にも我を忘れて見入ってしまったが、今は本当に神仙の様だ。その衣装はこの日の為に用意を?」 「はい……私は漠然とした希望をお伝えしただけですが、皆様が張り切って準備や支度をしてくださって。想像していたよりずっと華やかになりました。少々不釣り合いに感じてお恥ずかしいのですが……」  甘美な言葉と極上の笑みを受け、青藍は鼓動を速めながら答えた。  鮮やかな赤と白を主色に据え、桃や薄黄色等を重ねた軽やかで重厚感のある綾羅錦繍(りょうらきんしゅう)。胸元には真朱の組紐を渡してある。  平素より高く複雑に纏めて結い上げられた艶やかな黒髪に、見栄え良く配置された金銀の細工物。王妃より貸し与えられた宝冠が神々しく光り、真顔でいれば殆ど人に見えない神聖さである。  王は先程まで美しく琴を奏でていた指へと敬愛の情を示すかのように口付けし、青藍の鼓動を更に速めた。長椅子に肩を並べる許可を得ると、青藍の綾羅に気を配りつつ静かに腰を下ろす。  前回来訪があってから今日の再会まで少々間が空いたので、青藍ははにかみつつ嬉しく思った。一刻少々の後には初めて肌を合わせる事になるというのに、隣に座すその存在に自ずと心が安らぐ。 「しかし、見る程にこの世のものとは思えぬ嬋媛(せんえん)な姿だな……琴を弾く姿も木々の絢爛(けんらん)に目を輝かせる姿も、ふとした瞬間に天上へ帰ってしまいそうで不安になる程だ」  自身も男性美溢れる武神の如き出で立ちをしているというのに此方のことばかり褒めるので、青藍は少し可笑しかった。
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