花燭(五)

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花燭(五)

 表情を取り繕うことも出来ず、全身から緊張感を(みなぎ)らせて寝台へと上がった青藍であったが、出会いから二年半、側妃に迎えて半年近く欲求に耐えた王は性急に事を進めはしなかった。  寝台に背を預けたままの恰好で、石の様になった青藍を抱き寄せると、普段と変わらぬ調子で詩書の感想を求める。口少なであった青藍は聞き巧者(ごうしゃ)な王によって言葉を引き出され、気に入った個所に指を滑らせながら所感を述べるまでになった。  左胸の辺りに顔を寄せて閑話に興じる内に居心地が良くなった青藍は、湯槽(ゆぶね)に散らされた花が綺麗だった事などを楽しげに伝えた。全身に擦り込まれた香油の匂いを確かめるのに手首を取られた時だけは、その手の大きさや熱を妙に意識してどきりとする。  先の逢瀬を振り返る中、時折頬や髪に落とされていた口付けが自然と頻度を増し、話題が尽きた頃、じゃれ合うように青藍からも控え目な口付けを返した。  戯れの応酬をすること暫く、青藍は向かい合って横臥した王の瞳に確かな情欲を見る。  己より厚みのある掌が、紅潮した頬を包んだ。青藍も利き手を伸ばし、凛々しい輪郭にそっと触れる。愛しい肌の感触。  何方(どちら)からともなく顔を寄せ合う。それまで軽く唇を当て合うのみであった行為が、あの日医務室で交わしたような深く濃いものへと変化する。青藍は久方振りの濃厚な触れ合いに拙く応えながら、眼前の偉丈夫がその気になれば、こうも簡単に己を昂らせることが出来たのだなと思い知った。  口付けを交わしている内に乱れた衿元を無意識に直しつつ息を整えながら、青藍はもの言いたげな顔をした。ほんの僅か(ひそ)められた柳眉を見て、王がどうしたと訊く。濡れた唇を拭われるのにも敏感に反応しつつ、青藍はおずおずと口を開いた。 「いえ、あの……何というか意外で……煌龍様にその、欲があったことが……?」  健康的な壮年の男に対し何とも酷い言い草だと思い、最後は曖昧な調子になる。  すっかり欲が薄れているようだと言った王太后の言葉が頭を(よぎ)り、また、魅力のない己に欲を覚えることがあるのか疑問だったが故の発言で一切悪気はなかった。  入宮から今日までそれらしい態度を見せてこなかったので、元来性欲の薄い質なのであろうとも考えていたが、盛大に苦笑したところを見ると、どうやら見当違いであったらしい。 「可愛い少婦に悋気(りんき)を起こされないよう、色事を()っていただけだ。俺とて唯の男だ。お前の事を思い一人寂しく事に及ぶ日々だったよ」  酒に酔って余計な事を口走ったのを思い出し、青藍はあっという顔をした。そして直ぐに怪訝な面持ちになり首を傾げる。 「一人で交合は出来ないでしょう?」  珍しく驚愕の表情をした王は、言葉にならない様子で口元に手をやった。広い手で隠れているが、薄らと笑んでいるようにも見える。何か妙な事を言っただろうかと青藍は不思議がった。 「そうか、参ったな……いや、済まない。想像していた以上に純粋で驚いた。そこまで徹底して躾けられていたか……」  青藍は嫌な予感に胸が騒いだ。王の反応は決して己を馬鹿にしたものではないが、世の常識から乖離した、痴愚な事を口走ったような空気を感じ取る。 「……青藍、大抵の人間は自涜(じとく)を行なって欲を解放しているのだ。欲が込み上げたり、内に溜まったりする度に誰かとの交合で発散するのは難しいだろう? 自涜というのは自身の手や道具を使って体、特に__」  真面目な顔で諭すかのように性教育を施され、青藍は羞恥に泣き出しそうになった。頬が異常な程に熱くなり、どっと汗が出る。一通り説明を終えた王は、今にも逃げ去りそうな様子の青藍を腕の中に納めた。 「やや刺激が強い話だったか。だが少しずつ慣れていこう……それにしても、お前の性事情を知れて良かった。(もと)より大事にする積もりでいたが、殊更時間をかけて丁寧に体を開いてやらねばな……辛い思いをせずとも済むよう善処する」  根気強い抱擁により気を取り直した青藍は、改めて唇を求めて来ようとした王を思わず押し止める。口元を塞がれた王は、器用に肩眉を上げて訳を尋ねた。 「あの、この期に及んで何とも程度の低いことを申しますけれど……私は、何としても煌龍様の御子を王位に即けねばといった使命感の様なものは、余り頭にないのです。この世に生を受けた以上、後の世へ命を繋いでいく事は当然の義務だとかいう崇高な考えがある訳でもなくて……そも、生涯独り身の積もりでいましたし……このような私でも煌龍様と番う資格はありますか? 私は、ただ、貴方であればこの身を預けられる。子を儲けるのもきっと悪くないだろうという薄弱な考えのもと、事に及ぼうとしています……」  青藍は自分でも何故今この様な告白をするのか皆目解らなかった。自身が自覚しているより、内心は相当混乱しているのかも知れないと思う。王は何故か眩しい程の笑みを浮かべて言う。 「これ以上ない嬉しい言葉を、何故その様に神妙な顔をして言うのか理解に苦しむ」  青藍は一つ安堵しつつ、尚も言葉を続けた。 「実はまだ懸念している事が……煌龍様、私の体を見たことがないでしょう? 気味悪く思うかも知れませんよ。悪心(おしん)を覚えるかも……正しいつくりの女性とは違うので……」  未だに侍女泣かせの質素な出で立ちを好んでいる己を、現時点で王は咎める事はおろか嫌な顔一つせず愛でている。しかし、衣を脱いだ体を目にして真の異形に触れた時、その眼差しが不快で曇る事を青藍は何より恐れていた。 「……お前は覚えがないだろうが、腰から上に限って言えば、一糸纏わぬ姿を今日まで二度見たことがある」  青藍は吃驚して目を見開いた。王の言う通り、少しも覚えがない。 「一度目は女楽団の敷地で火が上がった時のこと、雨に濡れたお前を楽舎まで運んだ後、凍えるといけないので急ぎ脱がそうとして楽師長らに止められた。今になって思えば、二人の必死な様は尋常でなかったな。当時は違和感を覚えつつも、これ以上手を煩わせる訳にはと言われて納得してしまったが……二度目は泥酔したお前を介抱している時、寝苦しいだろうと肌着一枚にしてやったら、暑いと言ってそれすら脱ぎ始めたので参った」  初めて聞かされる失態に、青藍は二度と深酒はしまいと誓った。王は先程、口付けの合間に解いた青藍の黒髪を弄びながら目を細める。 「眠気もあってか段々と正気をなくしていったお前は、楽舎の井戸まで水を飲みに行くと無茶を言い出したかと思えば、酩酊感を味わう為に歩きたい等と駄々を捏ねるので宥めるのに苦労した。これまで対処した事のない事態で、良い経験をさせて貰ったよ。存外頑固なところがあると知れたのも悪くなかった」  精悍な顔を綻ばせる王に対し、青藍は絶句して自己嫌悪に陥る。 「……二度とも下心があって見た訳では無いが、酷く美しい体だと思った。下穿きを脱がせてみたら怪異と目が合う訳でなし、見知った物が何方(どちら)も其処にあるだけで何を不気味がることがあろう」  それは、そうですけれど……青藍はやや拍子抜けしながら言った。 「これ以上懸念があると言うのなら聞いておくが……」  目下の不安が解消され大人しくなった青藍は、王の胸に顔を埋めたまま首を横に振る。 「では、先に進もうか」  細く白い(うなじ)を指の腹で撫でられた。その絶妙な力加減に、青藍は唇を引き結んで小さく震える。    愛戯の再開。仰向けにされた体に、寝衣を纏った立派な体躯が覆い被さり迫ってくる。低い位置で結んだ美しい長髪が、肩越しに垂れ下がった。浅く弱い呼吸をして見上げる青藍は、不明瞭な視界と頭で神獣の尾の様だと思う。  いよいよという時になり、鋭い牙が並ぶ縦長の口を上下一杯に開いた巨大な龍が一呑みにせんと食らいついてくる心象に襲われ、青藍は固く目を瞑った。  しかし、実際に与えられたのは神獣の一咬みではなく、柔らかで優しい口付けである。皺の一つもない真白な額に、頬に、終わりに口元へ、静かに唇を寄せられた。 「そう怯えずとも取って食いはしない」 「は、は……見抜かれてしまいましたか。神龍に食べられてしまうような心持ちがして、つい」  潤んだ瞳に引き攣った笑み。(およ)そ情けを受ける前には見えない有様で言えば、王は優しく微苦笑する。強張った顔を解そうとするかの如く唇や掌で優しく触れられ、青藍はくすぐったさに口元が緩んだ。 「はて、我が国に人食い龍の伝承などあったか……酷くはしないから、力を抜いていなさい。そう体を硬くしていては快感も拾えまい」 「ん……」  滑らかな首筋に唇を寄せられ、軽く食まれる。慈愛に満ちた先のものとは明らかに意図の異なる愛撫を受け、青藍の口からくぐもった声が漏れた。
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