花燭(九)

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花燭(九)

 __ン、カァーン 「……っ!」  屋外から届いた鐘の音に青藍は慌てて飛び起きた。室内はすっかり明るく、早朝と呼ばれる時間を()うに過ぎていることが窺える。  始業時刻まで熟睡して目覚めないとは何たる失態であろうと、青藍は思わず頭を抱える。長く真っすぐな黒髪がはらりと垂れた。  朝課に穴を開けて皆に迷惑を掛けたと項垂(うなだ)れ、それにしても静かに青筋を立てた陶が起こしに来そうなものなのに……と不思議がったところで、ふと思い出す。己は今、楽舎で研鑽(けんさん)を積む楽師見習ではなく載国国主に嫁した側妃、韵芳雯であったと。  同時に、毎朝の務めである霊廟への参拝を疎かにしたことに気落ちして、掛け布の上から膝を抱えた。政に携わっている正妃の廉綾など既に出仕している頃だろうと思い、自身の至らなさに嘆息する。 「青藍」  真横から発せられた力強く品のある低音。青藍は酷く吃驚して、伏せていた顔を勢い良く上げた。  閉ざされていた窓や扉が解放され、淫靡が支配していた室内は上午の外光で爽やかである。  寝台の上に長い脚を伸ばして座る偉丈夫が、広げた巻子を膝の上に置いて此方の様子を窺っていた。周囲には他にも幾つかの書状が見える。  瞬く間に覚醒した青藍は、昨夜の出来事を思い出して一気に赤面した。寝惚けた姿を間近で見られた事も手伝って耳まで熱い。 「煌龍様……お早うございます。寝坊してしまったと思って、慌てました。いえ、寝坊はしていますよね。すみません……」  公的な物か私的な物か書状に目を通して時間を潰していたらしい王に、青藍は深く頭を下げて失態を詫びた。起きて早々に悄気(しょげ)る青藍を見て、寝衣姿の偉丈夫はからからと笑う。 「はは、そういう事か。早暁近くまで無理をさせたからな……気兼ねせず心行くまで眠って貰って構わない。此方としても、愛らしい寝姿を堪能出来て良かった」  眩い程の微笑を向けられた青藍は照れ笑いを返しつつ、明け方まで事に及んでいたのかと密かに驚いた。気を失うように入眠したのも無理もない話だと思う。  同時に、疲れから泥の如く眠っていた分、酷く間の抜けた寝顔をしていたのではないかと想像して、面映さに口を噤んだ。  顔を伏せた青藍はその時になって漸く、自身が昨夜とは違う寝衣を着ている事に気付く。  一晩中汗を掻き体液に濡れた体は、丁寧に清拭されたらしくまるで入浴後のようであった。これだけ世話を焼かれて一時も目覚めないとは、本当に深く寝入っていたのだなと我が事ながら驚き呆れる。 「何処か辛い所はないか。今朝からずっと微熱があるようだが」  巻き納めた巻子を脇へと置いた偉丈夫は、広く厚みのある掌を少婦の額に当て、熱を確かめながら問うた。やや渋い顔をしたのを見るに、就寝中に測った時から熱が引いていないらしい。  王は僅かに紅潮している頬に手を滑らせると、額の中程に軽く唇を押し当てた。幸せなむず痒さに青藍は目を細める。 「言われてみれば少しだけ頭が重いような気がしますが、単に寝起きのせいかも知れません。大した事はないので直ぐに治ると思います」  体の具合について、青藍は明言を避けた。  実際は下腹部に微かな鈍痛が残っており、普段は取らない体勢で長時間交合をしたせいか、主に腰から下にかけて疲労を感じる。言葉にしなかったのは、素直に告げては気を遣わせると思われた為で、また一々申告するのが気恥ずかしかった。  青藍の心情を酌みその体調を察してか、王は戯れるように口付けを与えながら、ごく自然に少婦の体を寝台へ横たわらせた。自身も肘枕で横臥すると、横向いた青藍の腰骨辺りに手を置き労をねぎらう。 「昨晩は良く耐えてくれた。経験を積めば苦痛に喘ぐ事もなくなる筈だ……今日は此処に籠って自堕落に過ごそうか。偶には許されるだろう」  珍しく髪を下ろしている寝衣姿の良人が、穏やかな笑顔で此方を見つめている。  これまでも共寝の経験はあったものの、暁闇に気配を殺して去られしまう事が多く、稀につられて目を開けても半覚醒のまま寝かしつけられていた。  日の高い内から寝台で無為に過ごすというありふれた幸せは、両人にとって貴重かつ新鮮なものであった。心嬉しさから青藍は、この瞬間地上で最大の果報を与えられた者のように相好を崩す。その笑みは、朝の光に溶けてしまいそうな程に純真無垢であった。 「……私、昨晩は煌龍様にたくさんの無礼を働いたような気がします……」  次第に数々の醜態を思い出した青藍は、心底から申し訳なさそうに言った。 「未知の行為に戸惑い、懸命に応えようとする姿が愛しくて堪らなかった。普段からあれ位の態度で接してくれ。お前は遠慮勝ちだからな」  気さくに笑う王。その衿元から覗く鎖骨辺りに見慣れない傷を認めた青藍は、気遣わしげな表情になって細作りな手を伸ばした。健康的な肌に走った赤い傷のそばへ軽く指先を当てる。 「煌龍様、ここ、お怪我をされていますよ」  青藍の指摘に目を細めた偉丈夫は、整った顔を近づけて悪戯っぽく囁いた。 「つれないな、張本人がまるで他人事だ」  目を白黒させた青藍は、慌てて手を引く。 「す、すみません! 煌龍様のお体に傷を、途中から前後不覚で記憶になくて……あの、痛みはなかったですか?」  一寸程の小さな傷ではあるが、玉体を害するなど所次第では斬首を免れない所業である。青藍は酷く恐縮しつつ、傷つけた場面を想像して居た堪れない思いがした。じわりと(うなじ)が熱くなる。 「最中にお前が受けた苦痛と比べたら無いに等しいものだった。生涯消えなければ良いと年甲斐もなく浮かれているのだから、そう小さくなるな」  指の背で頬を撫でられた青藍は、心地良さにやや口元を緩めつつ再度詫びの言葉を口にした。 「……ああも色々とする事があるだなんて知らなかったので、昨夜はもう本当に心の余裕がなくて……無知を告白すると、その、挿入直後に精を受けたら終わりかと……」  気恥ずかしさに薄ら汗を掻きながら言うのを聞いた王は、細腰を(さす)りながら笑った。 「それ程に素っ気ない行為であれば、人の世が綿々と続く事もなく、傾城に入れ込んで身を亡ぼす王も存在しないだろうな。それに、昨晩の行為が情交の全てではない。少しずつ愉しみを増やしていこう」 「………………ところであの……大丈夫でしたか」  あれ以上があるのかと絶句した青藍は、気を取り直して漠然とした問いを発した。 「何がだ」 「私の体です。煌龍様はお優しいから、無理をされていたのではないかと……私、紅梅殿を与えられた時から考えていたのですけれど、宦官になる為の施術を今も行える方がいらっしゃるのなら、いっその事、無くしてしまっても良いと思っているのです。陰嚢が無い私には、無用の長物だそうですから」  至極真面目に申し出た青藍であったが、王は珍しく呆けた顔をして静止すると、やがて可笑しそうに笑った。青藍は呆気に取られる。 「決意は嬉しいが施術は不要だ……改めて伝えよう。お前を迎え入れたのは確かに半陰陽だと明らかになったからだが、何も女の部分のみを愛している訳ではない。全てを愛しいと思っている。お前が今まで燕青藍として生きてきた証でもある陽物を、俺の為に無くしてしまう等と言ってくれるな」 「……有難うございます……あの、ごめんなさい、煌龍様のお気持ちを疑うような事を言って……」  半狂乱に近い状態にあった昨夜もそのような事を言われていたのを、青藍は今になって思い出す。  物心ついてから好情を抱いたことのない自身の性。喜ぶべき許容にも懐疑的になった。先程より小さくなる青藍に微苦笑した王は、腹に響く低声で言う。 「昨晩は……」  腰骨にあった手が薄掛けの上から妖しい手つきで外腿(そともも)を一撫でしたかと思うと、(おもむろ)に股座へ食い込んだ。小振りな物が隠れている辺りを揉むようにして刺激される。 「あっ 煌龍さま……」 「此処も(ないがし)ろにせず確りと愛でた積りでいたが、思いが伝わっていないという事は不足していたようだな。今から再び励もうか、お前が思い知るまで……」 「あ、朝ですよ……!」  青藍は無抵抗に近い弱弱しさで難色を示す。下穿きの上から弄ばれたのでは感覚を拾い辛く、何処かもどかしく思っている己に驚き羞恥した。 「冗談だ。万全でない相手に無体を働く訳にいかないからな。隣に食事を用意させてある。一晩中体技に近い真似をして腹が減っているだろう」 「続きは夜に__」  股の間から引き抜かれた手を目で追った青藍は、耳元で囁かれる艶めいた声に動悸を激しくした。
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