花燭(十)【完】

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花燭(十)【完】

 続きは夜に__  二夜続けて事に及ぶなど多淫が過ぎる。反射的に口を開きかけた青藍であったが、不承知の声を上げる事はしなかった。ただ赤い顔をして唇を引き結ぶ。  手間暇をかけて丹念に体を開かれている間、耐え難い羞恥心と共に感じたのは知識も経験もない少婦を思う確かな愛で、己を渇望する獰猛(どうもう)ささえ宿した瞳には育ち始めた欲を刺激された。精神的にも肉体的にも、怖れていたよりずっと好いものであった事は否めない。  僅かな逡巡の後で小さく頷いたのを見た王は、凛々しい目を細めると隣室へ向かうべく広い寝台を下りた。疲労や鈍痛の為に緩慢な動きの青藍が、後に続こうと寝台の縁に腰掛ける。  その時、此方(こちら)を見下ろしていた王が、俄かにその場へ膝をついたので青藍は周章狼狽した。  偉丈夫は仰天する少婦をよそに白く形の良い左足を手に取ると、その甲へ静かに口付けた。続けて両の足に丁寧な所作で絹の靴を履かせる。寝台から見下ろす光景は、まるで神聖な儀式の一幕の様であった。神か仙にでもなった心持がして、青藍は眩暈を覚える。  追撃の手を緩めぬ王はすっくと立ち上がると、開いた両腕を青藍へ向けて差し伸べた。食卓まで横抱きで連れて行こうという積りらしい。これまでは酩酊していたり裾長の綾羅を纏っていたりと運ばれるに値する理由があったが、僅かに体調が優れないだけで歩行に問題がない今、その腕に飛び込み(よう)されるのは甘え以外の何物でもない。青藍は躊躇する。  掌中の珠の如き扱いに慣れて良いものかと自制心が働くものの、その居心地の良さを知っている身には抗い難い誘惑であった。  不敵にすら見える微笑を見た青藍は、もう儘よとその首に抱きつき逞しい腕に抱え上げられた。この調子では微熱で済まなくなりそうだと渋い顔をしつつ、首元へ回した手に力を込める。心嬉しそうに笑った気配がした。  この日、好一対(こういっつい)の夫婦は、紅梅殿の寝処から殆ど出ることをせず仲睦まじく過ごした。  初夜を終え平素より浮ついた両人の話は尽きることがなかった。閑話の合間には青藍が弾琴をして王の心を和ませ、王が心を奪う低音で詩を朗読して青藍を陶然とさせた。  秋麗の下午。寝台の上で厚い胸に頬を寄せ微睡(まどろ)んでいた青藍は、あっと言いう顔をして覚醒する。重大事ではないものの、二人の出会いに関する事柄であるから耳に入れたいと思っていた余話があったのを失念していた。 「煌龍様、そういえば一昨日、西濱(セイヒン)から便りが届いたのです」 「そうか。皆、息災に暮らしているか」 「はい、お陰様で息災にしています。それで、父兄の他に伯老師からの文も同送されてきたのですが、その中にとても目を引く一文があって……」  青藍は身内の近況もそこそこに、老師からの文へと話題を移した。王は興味深そうな眼をして続きを促す。青藍は口角が上がるのを抑えられなかった。 「私達が邂逅(かいこう)するきっかけになった曲がありますでしょう。客舎の庭園で私が爪弾いていた。あの晩、煌龍様がお訪ねになった方が音色に気付かれたという……」  抱き寄せた華奢な体をその手で優しく撫でつつ、懐かしいなと王が呟いた。 「あれは、伯老師が楽師時代に作られた曲なのですが、私、幼い時分から一等好きだったのに、どういう訳か無名の曲だと思い込んでいたのです」 その昔、曲名を問うて無いと言われたように記憶していたが、読み書きも覚束ない齢の頃であったので勘違いや記憶違いがあったのかも知れない。普段は『あれ』『例の曲』などと呼んで弾奏を強請(ねだ)っていた。 「ところが、先日お送りした文で曲について少し触れたところ、今回の返書に曲名が(したた)められていて……あの曲は『送鐘歌』というそうです。詳しい事は書かれていなかったので、これだけでは一体何に曲想を得たものか解りませんが」 「…………」  不自然に押し黙った偉丈夫。目鼻立ちの整った面差しが何処(どこ)か険しくなったのを上目遣いに見ながら、予想と異なる反応に青藍は戸惑う。 「煌龍様、あの……何かお気に障ることを申しましたでしょうか……」  何事か考えに耽っている様子の相手に恐る恐る尋ねると、王は沈黙を詫びて軽く額に唇を当てた。  興奮と畏怖らしきもので鋭さを取り戻した黒曜の瞳は、酷く爛々として見える。それまで蕩けるような微笑でいた王の豹変に、青藍は何か不安な気持ちがして柳眉を落とした。 「済まない、あまりの事に狼狽した……その曲名、二字目は金に童と書くのではないか」 「ええ……そうです。よくお分かりになりましたね」  数十はある同音異字の中から何故一度で言い当てる事が出来るのか。薄気味悪く思った青藍は、怪訝な顔をして王を見た。溜息を漏らした良人が苦笑して言う。 「何という事はない。あの晩、俺が訪ねていった男の名が鐘だった」 「は……」  先刻までとろとろとしていた藍の瞳を驚愕に見開き言葉を失う青藍を、王は引き攣った笑みを浮かべて見た。ここに至って繋がった互いの相識(そうしき)。短い間に精一杯頭を働かせた青藍は、眉を顰めて口を開く。 「鐘殿と伯老師が、我々が邂逅するようお導きを……?」  各々が目を掛けている若人を上手く引き合わせたというのだろうか……釈然としない様子で青藍が問うた。  己の身に唐突な出郷を(もたら)した契機は、審理の場で兄が語ったものが全てではなかったのか。しかし燕青藍の入城に関して両者が報せを送受したとして、計略を成功させるには運に頼るところが大き過ぎるように青藍は感じた。  また、芳縁に恵まれたのは確かであるが、陶がそういった独善的な世話を焼く人間には思えなかった。  難しい顔をする青藍の眉間を親指で撫で、王が言う。 「狭い宮廷内のこと、両人が知己(ちき)であった可能性は大いにある……しかし、あの晩俺が鐘の元を尋ねたのは前々から決められていた事でなく、お前が庭で琴を奏でたのも衝動に突き動かされての事だった筈だ。何より二人で事を企てるには、伯氏の居所が余りにも城から遠々しい」  尤もな話だと青藍は頷きつつ、疑問を口にした。 「それにしても、まるで煌龍様が鐘殿に誘導されたように感じます」 「俺の印象では、鐘という男はそういった類の企てをする人間ではない。それに……」  当夜に思いを馳せている様子の王。青藍はその(かんばせ)をじっと見つめて続きを待つ。 「今思えば、何処からか琴の音が聞こえると言うにしては、酷く愕然としていたな……あの反応はとても演技をしている風には見えなかった……」  城に居る筈のない伯の琴声(きんせい)が聞こえて吃驚したと言うのか。青藍は首筋が鳥肌立つのを感じた。  その場に居合わせた者達に届かなかった音を、唯一老翁の耳が拾ったという不可思議な事象も、両人が知己であれば様相を一変して伝承説話の一場面となる。  出来過ぎた話に青藍は背中がぞくりと寒くなった。糸仙なる異名を持つ伯老師であるが、実際に霊妙な力を(そな)えているのではと疑いたくなる。  自分達の邂逅の裏で繰り広げられていた可能性のある物語が、二年以上の歳月を経て俄かに浮上した。余りに運命じみた話に、寝台の上で寄り添う二人の心は打ち震える。 「仮に尊老達が知己であったとして、此度の事は偶然が重なり結果として導かれた形になったのだろう。お前と居ると奇怪な事が次々起こるな……倦む暇がない」  その殆どが自らの意思とは無関係に起きた事であるが、王の言う通り短期間で様々な事があったと青藍は思いを巡らせる。身辺を騒々しくしている事への申し訳なさから曖昧な微笑を浮かべた少婦に、偉丈夫は皓歯を見せて笑いかけた。 「王業に負けず刺激がある暮らしも悪くない。言う迄もなく、お前の心身が健やかである事が条件だが。これまで単調が過ぎたからな……」  心遣いに微笑んだ青藍は、礼を言うと、顎の辺りに拙い口付けを送る。照れた顔を隠すように早々と王の胸元に頭を収めると、再びうとうととし始めた。  午睡の最中、不意に目が覚めた。  偉丈夫が逞しい腕に己を抱えたまま、静かに寝息を立てている。腕が痺れるだろうと思い、青藍はそろそろと体を起こして抜け出した。  柔らかな秋の陽光が差す部屋の中、腹這いになって安らかな寝顔を見つめる内に、思いがけず涙で視界が滲んだ。  幼少の折から、蔵を改装した薄暗い離れで一人孤独に眠っていた。伯老師や兄の来訪は頻繁であったものの不在の時間も多かったので、常に人恋しく温もりに飢えていた。  琴を生業に出来たらと夢想する一方で、生涯そうして暮らす可能性も覚悟していたのが、光に満ちた部屋で愛しい人と眠りに就いている。  相手は恋情を自覚していなかったとはいえ、長らく再会を切願していた威煌龍その人で、常人とは異なるこの身は少しも嫌悪される事なく受け入れられた。これ程の幸いが在るだろうか……青藍は鼻を啜る。  異変に気付いたのか、珍しく熟睡していた王が覚醒し、目を細めて如何したと訊いた。 「いえ……目覚めたら煌龍様がいらしたので」 「普通は不在を嘆くのではないか」  微苦笑しつつ抱き寄せられた。最早当たり前になった芳香と温もりに包まれて、青藍は涙で潤んだ瞳を閉じる。  数奇で幸福な人生だと思った。  (ひな)の古巣を飛び立った雛は、国主の傍に安住の地を見つける。
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