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いい匂いがする。これは卵とバター、それにパンの匂いだ。他にも香ばしいコーヒーとベーコンの匂いがした。ということは、きっと葉物野菜やトマトもあるはず。
「……しまった!」
飛び起きて、パジャマのまま慌ててキッチンに飛び込んだ。そこには予想したとおり那津の姿がある。
「おはよう、シロウ」
「おはよう。あの、僕寝坊して、」
「わかってますよ。かわいい寝顔を思う存分堪能しましたからね」
「……見てないで、起こしてくれればよかったのに」
「おや、一応起こしたんですよ? ほっぺをつついたり、おでこを撫でたりして」
「それじゃあ、目は覚めないと思う」
「そうですか? 唇にキスをしたときには、シロウのほうから熱心に吸いついてきていたんですけどねぇ」
「……!」
(那津ってば、朝から何てことを言うんだ!)
真っ赤になっているはずの顔を隠すように俯く。そのまま「顔を洗ってくる」と言ってキッチンから逃げ出した。
洗面所で顔を上げたら、やっぱり真っ赤になった顔が映っていた。鏡は便利だけれど、こういうときにはっきりと見えてしまうのは恥ずかしい。赤色を消すようにジャブジャブと水で顔を洗い、フカフカのタオルで丁寧に拭う。
「ふぅ」
タオルのいい匂いで少しだけ落ち着いた。ふんわり匂うのは知らない花の香りで、洗濯するとこういういい匂いになる。
タオルの匂い、ボディソープの匂い、シャンプーの匂い、どれもいい匂いだと思う。でも、僕が一番好きなのは那津の匂いだ。いつも「香水はつけていませんけどね」と言うけれど、いい匂いに感じるのは那津自身の匂いだと思う。だって、服の上から抱きついたときよりも裸でギュッとしたときのほうが匂いを強く感じるんだ。
那津は昔からとてもいい匂いがしていた。涼やかで少しだけ甘くて、線香に少し似ているけれどお香の香りに違いない。僕はその匂いを嗅ぐだけでとても気持ちよくなれる。
「シロウ、朝ご飯ができましたよ」
「はぁい」
キッチンから聞こえた声に返事をして、濡れたタオルを洗濯籠の中に入れた。
いつものように二人で朝食を食べて、窓の外を眺めたり本を読んだりする。那津は昨日と同じ分厚い本を読んでいた。小難しい文字ばかりのそれは全国の言い伝えや不思議な話が書かれた本で、那津の仕事の役に立つらしい。
(読書も仕事の一環なんだろうけど)
でも、やっぱりこのままじゃ駄目だ。
「やっぱり外に行こうよ」
「……いまですか?」
「うん」
昨日もその前も外に出なかった。だから今日こそはと思って顔を見ながらねだる。そうでもしないと那津は何日も外に出たがらないんだ。
「那津は、もう少し外に出たほうがいいと思う」
「そうですかねぇ」
「だって、引きこもりみたいだよ?」
「……そんな言葉、どこで覚えるんでしょうね」
那津が困ったような顔をしているのは、僕の言ったことが当たっているからに違いない。
そもそも那津は外に出なさすぎる。僕が何も言わなければ一週間でも十日でも家から出ない。近くにいろんなお店があるのに、買い物だってパソコンでポチッとして済ませようとする。そんなんじゃ、きっと体を悪くしてしまう。
(だから近くの公園に行こうって、いつも誘うんだ)
そこは大きな公園で、大きな木もたくさんあってとても気持ちがいい。大勢の人たちが集まる場所のようで、小さな子どもたちが遊ぶ姿や犬の散歩をしている人の姿も見かける。大きな公園に行ったことがなかった僕にとって、そこはすぐにお気に入りの場所になった。
それなのに、那津は「こんな暑い日にわざわざ行かなくてもいいと思うんですけどねぇ」なんて言う。たしかに暑いかもしれないけれど、日が落ちたら僕は外に出られない。それじゃあ、やっぱり太陽が出ている間に行くしかない。
まだブツブツ言っている那津を玄関まで引っ張って靴を履いた。涼しいエレベーターで一階まで降りて、オートロックのドアを開けたらむわっとした熱気が全身を覆う。
「ほら、やっぱり暑いじゃないですか」
「暑いけど、噴水の近くなら涼しいんじゃないかな」
「噴水までが暑いんですよ」
「もう、那津ったら我が儘言わないの」
真冬の寒さは平気なのに、梅雨くらいからブツブツ言い始める那津はまるで子どもみたいだ。
昔もそうだったかなぁと思い出そうとしたけれど、モヤがかかったみたいになってよくわからない。ただ「暑い日にはかき氷ですね」と言っていたのは覚えているから、やっぱり昔から暑いのは苦手だったんだろう。
「木陰の道を歩けば少しは涼しいよ」
「せめてアスファルトでなければ涼しいんでしょうけどね。いまの都会にそれを求めても仕方ありませんが」
「雨の日はアスファルトのほうが歩きやすいと思うけど、たしかに夏は暑いよね」
とくにお盆近くになると、むわっとした熱が下から舐めるように這い上がってくる。その感触は僕も苦手だった。
(そういえば、そろそろお盆の時期だっけ)
だからこんなに暑いのかもしれない。
土蔵の中では外の暑さを感じることがなかった。お盆の月は遠くから大勢の人たちの声がして、線香の匂いが一面に漂うものという認識しかない。それからもう一つ、お盆の頃になると蝉の鳴き声がとても五月蠅くなる。
(お盆近くになると、本当に蝉の声がすごいんだ)
まるで何かに取り憑かれたように鳴き始める。僕はいつも蝉の鳴き声で目が覚めて、そうして一日中蝉の声を聞いていた。狂ったように鳴く蝉の声を聞きながら、目を閉じたり開けたりをくり返した。
そのうち段々と蝉の声が小さくなっていった。小さくなって、それから聞こえなくなる。
(……あれ?)
五月蠅いくらい鳴いていた蝉の声が聞こえなくなった。立ち止まって耳を澄ませると、それまで聞こえていたいろんな人たちの声も聞こえない。車の音、バイクの音、それに少し離れたところにある商店街の音も、公園のそばの工事の音も、全部聞こえなかった。
「何も聞こえない」
シンと静まり返った世界に僕の声だけが響く。さっきまで暑かったはずなのに、なぜか暑さも感じない。
濃い緑色の葉が揺れている。だけど窓は天井近くだから風を感じることはない。風が吹いているのか誰かに聞こうとしても、土蔵には僕しかいないし他は何もない。だから何も感じることはない。あぁ、そうじゃない、何も感じなくていいんだ。
僕はただここにいるだけだ。ここだけが僕の世界で、ここには僕しかいない。土蔵は僕しかいない、僕だけの世界。
「シロウ」
どこかから声がする。誰の声だったかな。
「シロウ」
あぁ、そうだ、この声は僕の大好きな……。
「シロウ、大丈夫ですよ」
そうだ、大丈夫だっていつも教えてくれる声だ。僕はここにいるんだと教えてくれる声。
「シロウ、わたしの声を聞いて」
そして、僕が大好きな人の声。僕が大好きで、僕を大好きだと言ってくれる大好きな声だ。
「……那津」
「お盆が近いからか、いろんなモノたちが引き寄せられてしまいますね」
「引き寄せられる?」
「えぇ。シロウがあまりにかわいいから我先にとやって来るんです」
「……僕はかわいい?」
「とっても。かわいくて誰よりもきれいですよ」
そう言われて頬が緩んだ。那津にかわいいと言われると嬉しくなる。かわいいですよって言いながら撫でてくれると、もっと嬉しい。
でも、きれいっていうのは少し恥ずかしい。体を撫でるときにいつも言われる言葉だから、そのときのことを思い出して顔が熱くなる。
「今日はもう帰りましょうか」
「うん」
いつの間にか夕暮れ時の空模様になっていた。日が落ちる前に帰らなくては。日が落ちてしまうと土蔵よりももっと遠くに引っ張られてしまうから、僕は日が落ちたら外に出られなくなる。
「もうしばらくすれば、夜になっても外に出られるようになりますよ」
「本当に?」
「えぇ。もう少し体が保てるようになれば平気でしょう」
よくわからなかったけれど「うん」と頷いて答える。
「秋には夜店に行ってみましょうか」
「よみせ?」
「秋祭りの出店です。夜、灯りの下でいろんなものを売っているんですよ」
「秋祭り……」
僕は一度もお祭りに行ったことがない。でも、もうすぐ行けるようになるかもしれない。そう思うとワクワクした。那津と一緒にお祭りに行って“よみせ”にも行ってみたい。
「楽しみだね」
「えぇ、楽しみですね」
「じゃあ帰りましょうか」と差し出された手を握ったとき、ふわりと線香の匂いがした。
「那津、お線香持ってきたの?」
「念のためと思っていたんですが、役に立ちましたね」
「役に立った?」
足元を見たら三本の灰が見えた。灰の近くには蝶の形をした真っ黒な影がある。
蝶の形をしたものは、いつも那津が持ち歩いている形代と呼ばれる和紙だ。那津はその紙を使って仕事をしている。そういえば僕がいた土蔵の中にも、蝶の模様の道具がたくさん置いてあった。
「周りを浄化するのにも役立つんですよ」
浄化というのは那津の仕事のことだ。詳しくはわからないけれど、よくないものを遠ざけることだと以前教えてもらった。
「お線香ってすごいんだね」
「そうですね。さて、火の始末はきちんとしないといけません」
そう言った那津が、ペットボトルの水を三本の灰と蝶にたっぷりとかけた。
きれいに並んでいた灰が、水に濡れてじわじわとアスファルトに広がっていく。まるでアスファルトが線香の灰を飲んでいるみたいだ。その隣で、真っ黒な蝶の影がふわふわと溶けていく。
「さぁ、帰りましょう」
「うん」
家を出たときにはミンミンと大騒ぎしていた蝉の声は、いまはカナカナという声に変わっている。その声が、なぜか少しだけ寂しく聞こえた。
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