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 五月蠅いくらいの蝉の声で目が覚めた。  ゆっくり目を開けて天井近くにある小さな窓を見る。外はとても明るく、随分と陽が高くなっていることに気がついた。揺れる葉が見えるから風が吹いているのかもしれない。でも、ここには天井近くの窓しかないから外を確認することはできない。 (そういえば、蝉の声が増えた気がする)  どこからか線香の香りがしていることにも気づいた。ということは、そろそろお盆の月なのかもしれない。お盆が近づくと盆提灯だの精霊馬だの騒がしくなって、ここにいても何となく外の様子がわかる。  ふと、干菓子のことを思い出した。お盆のときには干菓子がもらえたのだけれど、いまはどうなのだろう。 (綺麗だったな)  干菓子をもらったときのことを思い出した。  白や赤、緑色で作られた小さな花の形の干菓子はあまりに綺麗で、もらってもなかなか食べることができなかった。そのたびに「またあげますから、お食べなさい」と言われたのは随分前のことだ。 (いつも一つずつくれるんだ)  骨張った指が小さな干菓子を摘んで僕の手のひらに置く。僕はその骨張った指が好きだった。  干菓子を摘むとき、きゅっきゅっと動く節が好き。綺麗に整えられた爪の形が好き。僕よりずっと大きな、男の人らしい指と手が好き。 (……違う。僕が本当に好きなのは干菓子じゃない)  大好きな骨張った手がくれる干菓子が好きだった。  目の前で干菓子を摘んでいた指や手は、いつの間にか俯かないと見られない位置になった。それでも指の動きを見ていたくて、いつも座ってからもらうようにしていた。そうすれば大好きな骨張った指を目の前で見ることができる。  干菓子をくれたあと、大好きなその手はいつも僕の頭を撫でてくれた。骨張った手で優しく撫でられるのがとても好きだった。 (いつも、最初のうちだけ少しひんやりしているんだ)  そう感じたのは、緊張して僕の体が火照っていたからだ。頭を撫でられることなんてなかったから、最初の頃はとても緊張していたのを覚えている。そのうち撫でてもらうのが気持ちよくて「もっと撫でてほしい」なんて思うようになった。  でも、大好きな手が僕の頭をずっと撫でることはできない。わかっていたけれど、どうしても撫でてほしくていつも少しだけ我が儘を言う。すると「そんなにかわいい顔をして、困りましたね」と笑って僕の頬をするりと撫でてくれた。 (本当は、頭よりも頬を撫でられるほうが好きだった)  頭を撫でられるよりも緊張して大変だったけれど、頬を撫でられるほうが何倍も好きだった。それに、本当は最初から頬を撫でてほしいとずっと思っていた。  僕は、ほんの少し勇気を振り絞ることにした。頭じゃなくて最初から頬を撫でてもらおう。そう考えて、干菓子をくれた後に伸びてくる手をぎゅっと掴んだ。そのまま頬にぴたりと当て、その手を包む込むように自分の手を添える。 (はじめはとても驚いていたっけ)  頬に触れた手が少しだけ震えていたのを覚えている。だけど、大好きな手は離れることなくそのまま僕の頬を撫でてくれた。  少し冷たくて骨張った手はとても滑らかで気持ちがいい。撫でてくれているうちに少しずつ温かくなっていくのも気持ちがよかった。あまりに気持ちがよくて、僕は少し欲をかいた。干菓子をくれるときじゃなくても、もっと僕の頬を撫でてほしいと思ってしまった。 (もっと撫でてほしい)  それからの僕は、干菓子をもらうとき以外も骨張った手に触れるようになった。そうして決まって頬にぴたりとくっつける。お母さまがいるときは叱られるから、誰もいないときにひっそりと、こっそりと。 (すごく困った顔をしていたっけ) 「駄目ですよ」と言われたし、そっと手を離されたこともあった。それでも僕は何度も手を握った。どうしても頬を撫でてほしくて、握った手をぴたりと頬にくっつけた。何度かくり返すうちに、ようやく大好きな手が頬を撫でてくれるようになった。 (もっと撫でてほしくて、干菓子をもらう年齢じゃなくなってもねだったんだ)  そして、干菓子をもらうお盆の時期じゃなくても頻繁にその手を求めるようになった。そのうち、頬だけじゃなく耳や首も撫でてくれるようになった。 (今度は僕が驚く番だった)  驚いたのは最初だけで、すぐに撫でられる感触に夢中になった。耳の縁を撫でられるとき、少しだけ首がぞわぞわするのが好き。首を撫でられるとき、背中のあたりがムズムズするのが好き。  気持ちがよくて、もっと気持ちよくなりたくて、僕はついに「もっといろんなところを撫でて」とねだってしまった。  突然のおねだりに本当は困っていたに違いない。骨張った手がぴたりと止まり、顔を見上げると困ったように眉を下げていた。それでも僕はねだった。どうしても撫でてほしくて顔を見ながら何度もお願いした。 「そんなにかわいくねだられてしまったら、断れませんね」  小さく笑いながら骨張った指がするりと頬を撫でてくれた。  それからは、僕がねだらなくても頬や耳、首を撫でてくれるようになった。気がついたら着物を緩めて胸やお腹も撫でてくれるようになった。胸の尖ったところを撫でられると、ジンジンしたものがじわりと広がって気持ちがよかった。お腹を撫でられると、股のあたりがジンジンして気持ちがよかった。 「もっと、もっと撫でて」  ねだるようにお願いすると、骨張った手が股の間を撫でてくれた。着物の上からたくさん撫でてくれた後、着物の中に入ってきた手がきゅうっと握って擦るように撫でてくれる。それがとても気持ちよくて、僕はいつも「ぁ、ぁ」と小さな声を出した。お腹の奥がきゅうっとしてゾクゾクして、頭が真っ白になった。  お母さまがいないとき、僕はこっそりとお部屋に行くようになった。表向きは商いをしている家を継ぐ準備のために。本当は体を撫でてもらうために。  気がついたら撫でられていないところがないくらいだった。手で触れられるところはすべて撫でてもらった。そうして僕が成人を迎えた日、骨張った指が僕の中に入ってきた。 (驚いたけど、とても気持ちがよかった)  指だけじゃない。太くて長くて熱いものも入ってきた。それで中を撫でられるとすごく気持ちがよかった。骨張った指よりずっと気持ちがよくて、あっという間に指よりも大好きになった。 (あの日もだくさん撫でてもらった)  小さな窓を見ながらぼんやりと思い出す。  あの日は午後の早い時間に部屋に行った。お母さまが出かけてすぐに部屋に入った。そうして何度も中を撫でてもらい、奥に気持ちがいいものを出してもらう。それを出すと、熱くて太いものは外に出て行ってしまう。 (本当はもっと中を撫でてほしかった)  ずっと撫でてほしかった。でも、誰かに見つかったら大変なことになるからずっとは撫でてもらえない。だから、出て行っても「もっと」とは言わないように唇を噛んだ。痛いくらいに唇を噛んだとき、洋式のドアがガチャリと開いた。  それからどうなったのか、ぼんやりとしか覚えていない。それでも一番覚えているのは、お母さまの顔だ。 (まるでお堂にあった不動明王さまみたいだった)  目と眉をつり上げたお母さまは「情けで置いてやっていたものを」と言って左の頬を打った。驚いた僕は何も言うことができなかった。ただ呆然と見上げているだけだからか、お母さまが再び僕を打とうとした。その手を骨張った大きな手が掴んだ。 「あなたも、あの愚かな男と同じだわ。家のためにとあなたにまで嫁ぎ直したのに、この仕打ちはどういうことなの!」  そんなことをお母さまが叫んでいたような気がする。それから怖い目で僕を見て「淫売の子はやはり淫売だ。男のくせに男を誘うなんて汚らしい」と叫んだ。  怖い顔をしたお母さまは、僕の手を掴んで土蔵に引っ張って行った。そうして庭の一番奥にある一番古い土蔵に、僕は入れられた。 「おまえは淫売の子なのだから、最初からこうすればよかった」  土蔵の入り口に立ったお母さまは怖い顔をしながらそう言った。 「おまえの父は淫売に夢中になって、淫売の子を、おまえを作ったのよ」  眉をつり上げながら言葉が続く。 「それでも家のためにと、唯一の跡取りだからと我慢して引き取ったのに、今度は淫売の子が次の夫をたぶらかした。やはり淫売の子は淫売だわ」  揃って淫売に惹かれるなんて、あの男たちも汚らわしい。お母さまはそう言って僕を睨んだ。 「なんておぞましいの。おまえは一生、ここで過ごすといいわ。わたくしが味わった気持ちを少しでも味わうがいい」  不動明王さまのような怖い目で僕を見ながらそう言うと、土蔵の扉を閉めた。ガチャガチャと鍵を閉めながら「淫売やあの人と同じように、最初から処分してしまえばよかった」というのが、最後に聞いたお母さまの声だった。  そういえば、あのときもちょうどお盆の月だったような気がする。どこからか漂っていた線香の匂いは、いまもよく覚えている。 (あれからどのくらい経ったんだろう)  あの日から僕は一人でずっと土蔵にいる。どのくらい土蔵にいるかはわからない。ここには誰も来ないし、外がどうなっているのか知る術が僕にはなかった。 (一人は慣れているから、平気だ)  小さい頃からお母さまが僕に話しかけることはなかった。唯一話しかけてくれたお祖父さまにも正月にしか会うことがない。家には大勢の人たちがいたけれど、僕はいつも一人きりだった。  でも、あの人は違っていた。僕がとても小さいときにやって来たあの人は、誰も見ていないところでそっと干菓子をくれた。お盆のときにしかもらえなかったけれど、僕はそれがとても楽しみだった。 (僕の世界には、僕とあの人しかいなかった)  だから骨張った手や指をすぐに好きになった。撫でてもらうことが大好きになった。 (もう、随分と撫でてもらっていない)  あの人はどうしているだろう。まだ僕を覚えてくれているだろうか。次に会ったとき、また頭を撫でてくれるだろうか。もっと撫でてとねだったら、たくさん撫でてくれるだろうか。  そう思いながらずっと待っているけれど、あの人には一度も会えないままだ。 (土蔵(ここ)には僕しかいないし、誰も会いには来てくれない)  わかっている。どんなに願っても、もう誰も僕を撫でてはくれない。ここは僕しかいない世界だ。わかっているのに、いまでもあの人に撫でてほしいと思ってしまう。 (……あれ?)  どこからか声が聞こえた。誰の声かはわからないけれど、でもたしかに声がする。  僕はゆっくりと目を開けた。天井近くにある小さな窓から、ほんの少し光りが入っている。きっと月が出ているんだろう。 (夜なのに、誰の声が聞こえたんだろう)  もしかして、お盆だからだろうか。お盆の月には朝も夜も遠くで大勢の人の声がする。前までは随分と賑やかな声がしていたけれど、近頃はほとんど声も聞こえなくなった。だから、こうして小さくてもちゃんと声が聞こえたのは久しぶりだ。 『……ゥ』  また、声が聞こえた。でも、何と言っているのかまではわからない。何と言っているのか気になって、ゆっくりと起き上がった。どこから聞こえるんだろうと耳を澄ます。 『……ウ』  また聞こえた。今度はさっきよりも近くから聞こえる。ゆっくりと立ち上がって土蔵の扉に近づく。 『……ウ』  もしかして扉の向こう側から聞こえるんだろうか。扉にそっと耳を近づけた。そんなことをしても聞こえるはずがないのに、気になって耳を近づけずにはいられない。 『……ロウ』  あぁ、やっぱり扉の向こう側から聞こえる。何と言っているのかはわからないけれど、でも、声が聞こえる。どのくらいぶりだろう。  人の声が懐かしくて、扉にぴたりと耳をくっつけた。 『……ロウ』  また聞こえた。扉はひんやりとしているのに、声が聞こえると少しだけ温かく感じる。「もう一度聞こえないかな」と思って、扉にぴたりと耳をくっつけたままそっと目を閉じる。 『……ロウ』  聞こえた。また聞こえた。意味はわからなくても、人の声が聞こえるだけで嬉しくなる。  ぴたりと扉にくっつけた耳には、何度も何度も意味のわからない声が聞こえた。意味はわからなくても声が聞こえるだけで嬉しい。 『シロウ』  聞こえた声に体がビリビリとした。どうしてかはわからないけれど、ビリビリしたことに驚いて慌てて扉から耳を離したた。  手がビリビリする。足もビリビリしている。まるで長い間正座をしていたときみたいにビリビリする。こんなことは初めてだ。 『シロウ』  ビリ。ビリビリ。  声が聞こえた途端に、体のあちこちがビリビリした。どうしてビリビリするんだろう。 『シロウ』  ビリビリ。ビリビリビリ。  まただ。ビリビリが少し強くなって怖くなってきた。 『シロウ』  誰? この声は誰の声? 扉の向こう側にいるのは、誰? 『シロウ』  シロウって、誰? シロウって言っているのは、誰?  ビリビリが強くなって、僕は立っていられなくなった。ひんやりした扉に寄りかかりながら、ズルズルと床にすべり落ちていく。 『シロウ、聞こえているんでしょう?』  扉に当たっている右腕がビリビリした。もしかして僕に話しかけているんだろうか? 『シロウ、出ておいで』  出ておいでって、どういうことだろう。僕が土蔵(ここ)から出ることは許されていない。お母さまの言いつけに逆らうことはできなかった。 『シロウ、出ておいで』  僕がここから出たら、きっと家の人たちみんなが叱られる。お母さまはとても怖い人だから、家を追い出される人たちだっているかもしれない。だから、僕はここを出たら駄目なんだ。 『シロウ、おいで』  駄目なのに、僕を呼ぶ声が気になって仕方がない。ここを出たいと思ってしまった。  僕を呼ぶ声のところに行きたい。そこに行きたい、僕を呼ぶ声のところに行きたい。体中がビリビリして怖いけれど、でも、そこに行きたくて仕方がなくなる。 『シロウ、わたしのところにおいで』  行ってもいいんだろうか。本当に平気なんだろうか。ここを出ても叱られたりしないだろうか。家の人たちが叱られたりしないだろうか。 『シロウ、大丈夫だから、わたしのところにおいで』  大丈夫だと聞こえた瞬間、目の前の扉が開いた。ずっとずっと、一度たりとも開かなかった扉が開いた。  僕は、声がするほうへ真っ直ぐ走った。ビリビリしていたから上手に走れなかったかもしれない。体がふわふわして地面を踏んでいる感じもしない。それでも僕は、精一杯足を動かして声のほうに走った。  骨張った指と手で僕をたくさん撫でてくれた、大好きなあの人の声がするほうに一生懸命走った。
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