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 深い秋の夜。夜明けの兆しは遠い。月光の影に佇むグランドピアノに向かい、私はバッハのプレリュードを激しく弾き始める。譜面台に映る禁色に染まった自分の顔を平均律の音色で蒼く染め直すのだ。沈着に、克明に。   「佐藤さん、君だけがこんな遅くまで居残っているが、そこで何をしているんだ?」  声を張り上げて叫んだ担任教師のこの言葉がすべての始まりだった。私はすぐさま読んでいたトンプソン&トンプソンの著書『遺伝医学』を机の引き出しの中に隠した。放課後の誰もいない教室は、私にとってはプライベート読書室も同然だった。それが遂に担任教師に暴露されたことに、私は校則違反をしたような錯覚に襲われた。 「でも、ちょうど良かった。君に話したいことがあるんだ」  普段目にする優しい教師のイメージとは別の、見るからに男臭い肉付きの中年の教師が、いそいそと私の側に遣って来た。無理して作ったくだけた感じの笑みを浮かべて。それに対して、私は故意に表情を装うしかなかった。
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