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二人はやがて自由往来のできる門をくぐり街の外へと出た。
振り返ると、街をぐるりと囲む低い石壁が街とその周囲とを隔てている。
城壁のは麦畑が見渡す限り広がっていて、青い空には白い綿帽子みたいな雲がぷかぷかと浮かんでいた。
初夏の麦畑がまるで緑の海原のように風にそよいでいる。
「あぁ、なんか気持ちいい」
「……うん」
アズハが思わずつぶやくとココネもこくりと頷く。
街道の先に目を凝らすと、はるか遠く黒々とした森のあたりに小高い山が見えた。そこが今日の目的地、カズリの祭儀場のあるメラノスカの山だった。
馬車なら半刻(※一刻=約一時間)、徒歩でも二刻程で着くだろう。二人の脚でも昼前には到着するはずだ。
二人が歩く街道は、都市国家同士をつなぐ動脈であり、きちんと整備されていて、商売の馬車が数多く行きかっている。街へと物を運ぶ近隣の村の人々ともすれ違う。
暗くならない限りは危険は殆ど無いといってよく、ちょっとした遠足気分だ。
ココネはアズハの少し後ろを歩きながら、徐々に遠ざかる街並みを振り返っては眺めてみたり、雲を見上げては石に躓いたり、馬車の客に手を振ってみたり、少し浮かれているようだった。
どこか軽やかな足取りに、風に揺れる銀色の髪。そして軽やか過ぎる服装。
「あのさ、もう少しちゃきちゃき歩こうよ……」
アズハが道端の花にとまった蝶々をしげしげと眺めていたココネに声を掛ける。
「……あ、うん」
ココネの顔は苦言を呈されながらも楽しそうで、洋行の下で見るその肌は輝くように白い。アズハはそれ以上言葉を継げなかった。
「水も食べ物も持ってきてないんだよね?」
こくりと無言で俯くココネ。
街を出て半国ほどが過ぎ、流石のココネも少しくたびれてきたように見えた。
街道沿いとはいえ、着の身着のまま、丸腰で街の外を歩くのは厳しい。アズハが背負った布袋の中には、お弁当代わりの硬いクッキー数枚と青林檎が一つ、水筒がきっちり一人分入れてある。
「やっぱり……僕が面倒見るんだよね」
諦め気味にそう呟くと、アズハは袋空水筒を取り出してココネに差し出した。
やがて二人は大きな街道を外れ、小高い山へと続く脇道へと足を踏み入れた。
カズリの祭儀場のある山は、街の北側に広がるアリアハル森林の外れにある。
街道を外れ、森に近づいたせいか辺りに人の気配は無く、二人の影だけが付かず離れず進んでゆく。
木々が程よい木陰をつくりはじめた。
日差しは高くなったが、森からの風が心地よかった。
道は徐々に上り坂へと変わり、本格的な山道になる頃には、周囲は鬱蒼とした木々囲まれていた。
傾斜した道が続き、木々の根がむき出しで足場も悪い。
石がごろごろと転がった道の脇には、獣にでも食われたのか小動物の白い骨が散乱していた。
オオカミでもでるのだろうか? と、アズハは僅かに緊張の色を浮かべた。
「あまり離れるなよ」
「……うん」
治安の良い土地柄で、手持ちの武器といえば腰に忍ばせた護身用の小刀だけだ。
それは武器とは程遠く、リンゴの皮むきにしか使わないようなものだ。
オオカミのような獣やましてや『闇の滴』にでも出遭ったら、逃げるしか手は無いのが正直なところだろう。
流石にこのあたりまでくるとピクニック気分とはいかないようで、大岩の段差を越えるのによろよろと難儀しているココネを見かね、アズハは思わず手を差し出した。
「……ほら」
差し出されたアズハの手に、ココネが思わず嬉しそうに微笑む。
そのまま力強く引っ張られながら、岩をよじ登る。
「あ……ありがと、アズハ」
「面倒かけさせるなよ」
ぶっきらぼうな調子は同じでも、アズハの声はわずかに上ずっていた。
◇
太陽が天空に昇りきった頃、森が開け、視界が明るくなった。
二人はカズリの祭儀場にたどり着いたのだ。
そこは山の中腹に切り開かれた、広場のような場所で、数百の細い石碑が整然と並んでいた。
一つ一つが墓か、あるいは生きている人間の無事の帰還を祈る道しるべだった。
アズハは父親の石碑を見つけると膝をついて祈りを捧げた。
ココネも見よう見まねでそれに倣う。
「「…………」」
――親父、とっとと帰ってきてくれよ。
横を見ると、瞳を閉じたココネの横顔があった。
異国の少女の月の光を溶かしたような髪から、アズハは視線を外せなかった。黒い瞳と髪をもつアズハとはまるで違う、妖精のような儚げな姿。
「……ん?」
「あ、いや。うん」
ぱちりと開いたココネの瞳と目があって、アズハは思わずあたふたと空を仰いだ。
用事を済ませた二人は、昼食をとることにした。
本来は一人分しかない粗末な食事を仲良く分けあう。
草むらに腰かけて流れていく雲を見上げながら、焼き締めた固いクッキーをかじり、とんでもなく酸っぱい青りんごを二人で食べる。
「固い……」
「酸っぱい……」
口々に顔をしかめて顔を見合わせると、思わず笑みが漏れた。
だが、山の天候は変わりやすい。
燦々と降り注いでいた太陽は徐々に雲の合間に隠れ、風が湿り気を帯び始めていた。
「あのさ……、ひとつ聞いていい?」
「なに……?」
「ココネの居たキャラバンは、どうやって僕の親父を救ってくれたの?」
アズハは気になっていたことを、ぽつりと尋ねた。
ココネが以前、自分が居たキャラバンがアズハの父を救った、とだけ話してくれたことがあった。
しかしそれ以上話したがらないココネを、アズハは心の奥で不審に思っていた。
父親の手紙にも命を救われたとしか書かれてはいないのだ。
「…………あのね、その」
「……? 言えないような事?」
アズハはココネの瞳を覗きこんだ。ココネは困ったような表情を浮かべていたが、やがて決意したかのようにきゅっと眉を寄せて重い口をひらいた。
「炎で……追い払ったの」
「炎で?」
『闇の滴』が火を恐れる、というのは王立図書館の本で読んだことがある。
彼らがこの世界に現れた、ここ十年で分析された生態を記した本だった。
その身体は原形質で満たされた、巨大なアメーバ状の生命体。
意識も、知能も無く、食うという本能のみで動く化け物。
多くの生き物がそうであるように、彼らもまた火には弱い、とその本には記されていた。
「火って……沢山の松明とか?」
「ううん、ちがうの」
「他にどんな火があるってのさ?」
アズハには皆目見当がつかなかった。
火と言えば暖炉の薪や、ヤシから取れる照明用の油ぐらいだ。
「悪魔の……燃水」
「あくまの……ねんすい?」
アズハの顔に驚きの色がありありと浮かんでゆく。
「そんな、うそだろ?」
「うそじゃないの」
ココネは指先をぎゅっと硬く結んで、下を向いた。
ざぁっと冷たい風が吹き抜けて、空を灰色の雲が覆い隠してゆく。
――悪魔の燃水
それはアズハが国立図書館から借りて来ては読みふける本に記されていた。
伝承の『失われた時代』の一節にある悪魔が人間に授けたという燃える水の事だ。地面から湧き出る黒い水は油の一種らしく、信じられな程の火力で激しく燃えあがる。と伝えられていた。
全てを焼き尽くす恐ろしい地獄の業火の源。それが悪魔の燃水だとも。
人類は遥かな昔、その悪魔の黒い水の力で栄華を極めた時代があった。しかし、その力を利用しすぎた人間は、結局自らの世界をも焼きつくし滅んだ。
それがこの世界に伝わる忌まわしい禁忌の神話だった。
「私の国では……その黒い水が湧き出る井戸があったの」
「そ、それじゃ……その地獄の炎の……力を使ったの?」
ココネがこくりと頷いた。
日が翳り、木々がざわめきだす。雨の匂いのする風が首筋を通り過ぎてゆく。
――悪魔と通じている呪われた一族が、今も世界の何処かにいるという。
そんな伝説の一節が頭をよぎる。アズハは立ち上がった。その瞳には戸惑いと疑心の光が揺れていた。
そこに、時折垣間見せる優しい顔は無かった。
まるで他人を見るような視線をココネに向けている。
「アズハ……?」
ココネの口から弱弱しく、問いかけるような声が漏れる。
遠雷が、聞こえた。
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