第1話

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第1話

「止まれ、県警だ……ハックシュン!」  洟を啜りながら霧島(きりしま)は逃走しようとした万引き男に足払いを掛けた。だがクシャミのせいでタイミングが合わず空振りし、洟を垂らしたまま追いかける。  それを見ていた京哉(きょうや)がおもむろにメタルフレームの伊達眼鏡を押し上げつつ足を差し出した。万引き男は見事に引っ掛かってすっ転び、京哉は腰の帯革に着けたホルダーから手錠を取り出した。 「七時二十八分、窃盗の現行犯で逮捕します」  何故か歯ブラシを万引きした中年男は大人しく捕縛された。  ここは首都圏下の真城(ましろ)市内で霧島(しのぶ)鳴海(なるみ)京哉が暮らすマンションの近所にあるコンビニ・サンチェーンの軒先だった。  勤め先の県警本部に出勤する際、京哉が煙草を買いに寄ってみたら偶然にも万引きを目撃してしまい、このような事態になった。 「忍さん、所轄には連絡してくれましたか?」 「ああ、盗犯係に連絡は……ハックシュン!」 「貴方、いい加減に休んだ方がいいんじゃないですかね?」  心配そうに見上げた小柄な京哉を百九十センチ近い長身の霧島はハーフだった生みの母譲りの灰色の目で見下ろし、着用しているのは高級インポート生地のオーダーメイドスーツながら構うことなく袖で口元を拭った。 「もう治りかけ、大丈夫だ。問題ない……ずびび」  溜息をついて京哉は頭を振る。デスクワーク嫌いで『書類は腐らん』が口癖なのに休めと言うと霧島は却って出勤したがる。  それでも出勤すれば書類仕事は放擲しノートパソコンでオンライン麻雀だの空戦ゲームだのに熱中しているか、一週間交代で務めている食事当番のためにメニューレシピを検索しているのだから世話はない。  本当のところ霧島は自分の仕事の本質を『責任を取ること』だと心得ていて、実践しているからこそ若くても部下たちから信頼されているのだと京哉も知ってはいた。      実際は休ませる手段くらい幾らでも思いつくのだが敢えて強引には休ませず、デスクに就いているだけで本人が納得し、部下たちも安堵して職務に励めるならそれでいいと思っている。  それでも霧島の体調は心配で、おまけに進まぬ仕事は全て秘書たる京哉が被るハメになるのだ。  まもなく緊急音が響いてきて真城署刑事課の盗犯係の人員が二名、パトカーでやってきた。パトカーから降りた所轄の刑事二名は「いやいや、どうも」などと言っていたが霧島の姿を目に映すなり姿勢を正し、緊張した面持ちで身を折る敬礼をする。 「これは霧島警視、ご苦労様であります!」 「機動捜査隊長殿のお手を煩わせるとは、申し訳もございません!」  普通は警察官同士でも衆目の中では敬礼などしない。もし私事で私服なら県警本部のことを『本社』、所轄を『支社』などと呼称し誤魔化すくらいだ。  何故に誤魔化さなければならないのかは分からず、更にはどうしてサツカンと知れたら恥ずかしいのか自分たちですら理解不能な部分もあるが、とにかく京哉は恥ずかしくなり早々に万引き男を引き渡した。  簡単に状況説明し手錠を返却して貰うと早々に所轄にお引き取り頂く。そうして当初の予定通りに煙草を買うと、馴染みの店長に自分たちが警察官だとバレてしまったことが不思議と残念な気がした京哉は霧島と二人でスーツの上からコートを羽織りつつ、トボトボと歩いた。  変に萎れた京哉に霧島がぼそりと低く洩らす。 「とうに我々がサツカンだと、あの店長は知っているぞ」 「えっ、どうしてですか?」 「以前に私が停職を食らった件でメディアに追い回された時、マンション近辺のみならず、近所の店舗という店舗にメディアの人間が張り込んでいた……ゴホゴホッ」 「ああ……それでも忍さんはご自分の生活パターンを変えなかったと」 「当然だ、私が悪い訳ではない。幾ら懲戒を食らっても私はサツカンとしての存在意義に懸けて恥じない行動を取ったまで……ハックシュン! だがそれもたった数日間で、あとはメディアも行確のハムも撒いてお前との密会を愉しんでいたのだからな」 「そうです。それで僕らは実録系週刊誌にすっぱ抜かれてスクープされたんです」  行確とは行動確認で尾行のこと、ハムとは警備部公安課の隠語である。  あの怒涛の日々を思い出してしまい更に萎れた京哉だったが、全国的に顔を晒されたのは霧島のみで京哉は名前も伏せ字だった上、画像の顔の部分もモザイクを掛けられていたので助かったのだ。  だからといって霧島がスクープされたのは一度きりではない。警察官でありながら実父が経済界・社交界の大物なので勝手に跡継ぎと目されてしまった霧島も有名人であり、更に京哉に言わせれば霧島という男は規格外で奇人・変人の類である。  ずっと恋愛対象は異性だったのに、ここにきて強引さに巻き込まれるようにして、こんな男に惚れた自分が悪い。そう京哉は思いながらも年上の愛し人を独占している誇らしさで少し気分を上昇させ、白いセダンを駐めた月極駐車場まで歩いた。  霧島の愛車の前で恒例のジャンケンをしようとした霧島を京哉は留める。 「僕が運転しますから貴方は少しでも寝ていて下さい」 「分かった。煙草、吸ってもいいからな」  ステアリングを握った京哉は助手席に霧島を乗せて発車すると、早速言葉に甘えて煙草を咥えた。オイルライターで火を点けるとサイドウィンドウを僅かに下げる。  ここ真城市は県警本部もある隣の白藤(しらふじ)市のベッドタウンで、バイパス沿いに郊外一軒型の店舗があるくらい、あとは住宅街がのっぺりと広がっていた。そのため白藤市より犯罪も少なく暮らしやすい土地と云える。  それにこうして毎朝毎夕ずっと年上の愛し人と一緒なのだ。約一時間の通勤も京哉は苦になるどころか愉しみでさえあった。
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