1.錠剤

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1.錠剤

「はい、先生。お薬の時間ですよ?」  ベッドに寝た切りになった私は、言われるがまま錠剤を口に運ぶ。全面白で覆われた病室の中には窓が無く、陽の光の一筋ですら入ってくることはない。だから、今が朝か夜かの判別すら困難な状態だった。  口内に入った幾つもの粒を、配布されたペットボトルの水で一気に流し込む。嚥下する様子を一通り見守ってから、白崎信乃は優しい微笑みを浮かべる。私の専属看護師を自称する彼女は、高校時代に自分が担当していた生徒の一人だった。 「少し髭が伸びてきたんじゃないですか? もし良ければ、私が剃りましょうか?」  いや遠慮しておく。そう口にしたかったのに声帯が上手く機能せず、代わりに首を横に振らざるを得なかった。最近ずっとこの有様だ。身体のあらゆる機能が麻痺してまともに動かせない。精々白崎の質問に身振りで応答するぐらいが限界だ。  嘆息して、少し固めの枕に頭を乗せる。  ふと横を見れば、腕と管で繋がれた点滴台が雫を落としている。 「うん、体調は良好ですね。顔色も悪くないです。そしたら朝の検査はこれでおしまいなので、昼食の時間までまた寝ていて大丈夫ですよ?」  徐ろに私が頷くと、白崎は木製の用箋挟を胸に抱えながら口元のほくろを僅かに下げる。布の擦れる音、吐息の声音ですら聞き取れてしまいそうな静寂だった。 「あの、先生。念の為確認しますが、記憶は戻られましたか?」  問い掛けられた途端、脳内で微かに雑音が響き、思わず額を抑える。  そういえば私は何故、病床に寝かされる羽目になったんだ。病状は何だ。何処の病院で世話になっている。疑問符の圧迫と、それに相反する空虚な脳内。段々と身体が恐怖に侵されていくのが判る。  唇が戦慄く中で、自分に言い聞かせる意味も含め、かぶりを振った。 「そうですよね、残念です。早く元に戻るといいのですが」  目を伏せながら、白崎はそう呟いた。  どういうわけだろうか。  言葉の節々、仕草の一つ一つに違和感を覚えた。 「しかし、焦る必要はありません。ご自身の気分に合わせて、ゆっくり思い出していけばいいのです。全てを思い出すその日まで、わたしが出来る限りサポートしていきます」  微かに上がる口角、仄かに赤く染まる頬を見ていると、何やら霞に巻かれたような妙な感覚に陥る。彼女の本心は何なのか。私にここまで付きっ切りになる義理が一体何処にある。  ぼうっとする頭の中で、必死に思考を巡らす。しかし、失った記憶の痕跡を掴もうと努める度に意識が遠退いていき、気付いた時には欠伸が出ていた。抗う間もなく、徐々に全身の力も抜けていく。 「ああ、薬が効いてきたのですね。無理なさらないで大丈夫です。元々昼食の時間までお眠りになる予定だったでしょう?」  曇っていく視界の中で、純白のナース服がこちらに歩み寄ってきて、肩まで毛布をかけてくれる。 「おやすみなさい。時間になったらまた起こしに伺いますね」  その甘く柔らかい声を聞き終えるより先に、私の意識は深い微睡みの底に堕ちていった。
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