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2.悪夢
目の裏で、赤い閃光が迸った。
次いで後頭部に滲んでいく、燃えるような鈍痛。抵抗する暇もなく、がくんと膝を折って倒れ込む最中、頭上で誰かが満足そうに微笑んでいるように感じる。辛うじて視認できたのは、夕焼け空を反射する金属バットだけだった。
「良かったぁ。これであなたは──」
消えゆく意識の中で、恍惚に浸った猫撫で声が延々と反響していた。
かっ、と両目を開いた。
凄い発汗の量だ。呼吸も荒い。
頭がぐらぐらと揺れる中で、私は慎重に身体を起こす。
一拍遅れて、引き戸の音が左耳に入ってきた。
「うわ、凄い形相ですね。どうしたんですか、先生。大丈夫ですか」
慌ててるとも面白がってるとも取れる言葉をかけて、白崎はこちらへと走り寄ってくる。普段なら彼女が身体に触れても看護のためだと自然と受け入れるはずだった。
が、今回はその細い指先を反射的にはじいてしまう。後になってから己の行動に疑問を抱く。根源が全く判らない、本能からの拒絶だった。
「……先生?」
恐る恐る、白崎の顔を見やる。彼女は酷く動揺しており、目の端が微かに痙攣している。こんな表情を見るのは、入院中はおろか学生時代を含めても初めてのことだった。何と詫びをすればいいか判らず、思わず口を噤んでしまう。
「一体、どうしたんですか? 何があったか話してみてください」
その問いに答えようと、私は強引にでも口を動かそうとした。すると、喉の奥が僅かに震え、あ、あ、と雑音に近い音が辛うじて溢れ出てくる。それを機に、危うく忘れかけていた喋るという感覚が、身体に染みついた記憶と共に呼び起こされた気がした。
「わ、悪い、ゆめ、を、みた」
白崎の怪訝そうな表情などお構いなしに、必死になって言葉を紡いでいく。
「うしろ、から、だれか、に、なぐられた。それ、で、目の、まえが、まっくら、に」
情景を言語に変換していくうちに、段々と記憶が明瞭になっていき、先刻の恐怖が膨張していく。もしや、あの悪夢は走馬灯の類いなのかもしれない。実際に目にした光景が、夢となって蘇ってきたのだ。となれば、あの空白の記憶の原因は──。
仮説を組み立てていく度に、後頭部で何か熱いものが滲んでいき、わなわなと唇が震え始める。
「それで、わたし、は、記憶が、きえて、うあ、うああああ」
「落ち着いてください、先生。よほど酷い悪夢だったのですね。ですが安心してください。ここに居る限り、誰もあなたを襲ったりしません」
「ああ、私は、ここに、来るまえに、きっと」
「大丈夫ですよ、わたしがついています。この病室、すっごく頑丈なんです。それこそ虫一匹入れないぐらい。ですから安心してください」
過呼吸にも似た私の発狂を、白崎は何度も背中を揺すり鎮めようとしてくれた。彼女の手を通じて伝わる仄かな体温。優しく慈悲に満ちた声音。気付いた時には、脳内に流れていた雑音も収まり、真っ赤に染まった景色が正常に戻っていく。
「はい、今日のお薬ですよ。精神を安定させるために、今回は少し強めのお薬を飲みましょうか」
子供をあやすようにそう言って、白崎は紙袋から包装された錠剤を幾つも取り出し、病床の横のテーブルにそっと置いた。何も抗えないまま、一粒ずつ掌の上に落としていき、全部まとめて口の中に放り込む。そうして水と一緒に呑み込んでしまうと、いつもより早いタイミングで眠気に意識を掌握され、上半身が布団に吸い込まれていった。
「今度は良い夢が見れると良いですね。それでは、おやすみなさい」
最後に見た白崎の表情に、どういうわけか妙な既視感を覚える。が、それを思い出すより先に、目の先の景色がプツンと糸の如く途絶えてしまった。
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