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3.襲撃
そこは、高校の理科室の中だった。
橙一色で染められる室内に、軋んだ引き戸の音がやけに大きく響き渡る。生徒の宿題のプリントから目線を移すと、そこには馴染み深いセーラー服の女生徒が口元のほくろを上に向けながら立っていた。
また来たのか。お前も本当懲りないな。普段と同様に悪態をついてやると、彼女はにんまりと頬を緩めた。窓から差し込んだ夏の風が、その黒く長い髪を優しく撫でる。
──今日も内緒の授業、開いてくださいよ。
上目遣いでねだってくる女生徒に、私は呆れ気味にかぶりを振った。いくら薬学部志望と言えど、一生徒のためだけに何度も薬品庫を開けるわけにはいかない。前回は授業で余った薬品を使い切るために特別に開いてやっただけだった。
女生徒は、何でですかぁ、と頬を膨らませて帰る素振りを見せない。居座ろうとしたってそうはいかない。強引にでも理科室から追い出そうかと企んだその時。
忙しなく鳴り響いていた廊下の足音が、扉の前でピタリと止んだ。
徐ろに目を開き、上体を起こした。
汗もかいていない。呼吸も正常だ。しかし、今までと違い全身に不思議な感覚が行き渡っているのを感じ、一通り見回してみる。
もしやと思い、足の指を折り曲げたが、動く。試しに身体を起こそうと、後ろに手を突いて力を入れてみる。麻痺していた感覚が戻ってきていた。今すぐ誰かと喜びを分かち合いたい気分だったが、生憎白崎の姿はなかった。
珍しい。私が起きる頃には必ず枕元に待機しているのに。
だが、これは絶好の好機だ。そう思い至り、恐る恐るベッドから降りる。久々の床の感触は、ごわごわとして冷えている。一応周囲を確認してみるものの、何故か靴が近くにない。危険だが、裸足で進む他ないだろう。
点滴台の管を引きちぎり、引き戸へ向かおうとする。が、途中で平衡感覚を失い、近くのテーブルへと倒れ掛かってしまう。ガタン、と物音が木霊し、手に冷たい液体が降りかかった。顔を上げると、花瓶の中の水が大きく波打っているのが見えた。
少し目が眩む。だが、この程度なら問題ない。深呼吸で精神を整え、今度は壁伝いに引き戸へと向かう。取っ手に手をかけたところ、自然に扉が横に開き、その先で暗い廊下が横に伸びているのが見えた。
耳を澄ませてみると、左手の奥の方で隙間風が吹いているのが聞き取れる。恐らく、あの先に出口がある。看病に勤しんでくれる白崎には申し訳ないが、身体が自由になった以上、せめて陽の光ぐらいは拝みたい。
未だに平衡感覚を掴めないまま、壁伝いに廊下を進んでいく。電球が一つも付いておらず所々床のタイルが剥がれた一本道は、暗闇も相まって延々と続いているように錯覚してしまう。
それでも棒の如く硬直する足を、私は半ば強引に引き摺った。が、その時だった。何か物音がこちらに近づいてくるのを察知し、思わず立ち止まる。砂利の擦れる音。遅れてカツンと響く金属音。心臓がどくんと波打つ。向こうから、何かが来る。
逃げようにも足の感覚がまだ戻らず、その場で片膝を突いてしまう。物音は段々と大きくなり、やがて暗闇の中から何か別の存在を認識した。容姿までは判別できなかった。しかしその影が手に持つ物が、ギラリ、と妖しい光を放つ様が明瞭に脳裏に焼き付く。
その刹那、頭の隅にあったとある光景が運悪く刺激されて、全身の毛が一気に泡立つ。あれは、金属バットだ。また、奴が私を襲いに来たに違いない。
「せ、先生? 大丈夫、ですか?」
何か声が聞こえた気がしたが、恐怖で頭が回らない。
途切れ途切れでしか、言葉を判別できなかった。
「私、です。行方不明に、なった、と聞いたので、助けに……」
カツン、カツン、と死の宣告をするようにバットの音が反響する。奴が近づいてくる。来るな。私に近寄るな。せめてこの身体さえまともに動いてくれれば。やめろ。やめてくれ。
「ほら、行きましょう。そこで、蹲って、いたら、あの子が……」
殺される。そう覚悟した次の瞬間。
私の後方から、何かがごうっと噴出される。
「……かかっちゃってたらごめんなさい。緊急事態でしたので」
聞き慣れた声音が聞こえたのと同時に、妙な異臭と、粉状の何かが頭から降りかかるのを感じ取る。恐る恐る目を開けると、黒一色だった景色が今度は桃色の混ざった白で埋め尽くされていた。
目線を上げると、そこには普段と変わらないナース服姿の白崎が、赤い物体──消化器を片手に仁王立ちしていた。
「ああ、ですが煙は吸わない方がいいですよ。お身体を悪くされたら困りますので。……少し下がっていてくださいね」
そう言い残して彼女は、床を蹴った。消化器のホースを両手で掴み、暴行犯目掛けて戦鎚の如く振り上げる。赤き戦鎚は恐らく避けられたのだろう、ビュン、と高速で空を切った。
「し、白崎……さん」
息絶え絶えで、暴行犯は相手の名前を憎々しげに呟いた。平静を取り戻した今、その声の主がようやく女性であることを理解する。
「あなたが先生を……ちょうど良かった。昔から目障りだったの。私だって先生のことが好きだったのに、毎日のように先生に纏わりついて」
一層強く、金属音が床に響く。かと思うと、銀色の鈍器が空高く掲げられ、その先端で敵意を露わにするように光が瞬いた。
「許せない……私は、アンタを倒して先生を──」
怒気を孕んだ声が響くのと同時に、バットが斜めに振り下ろされる。しかし、かなり大振りで姿勢も悪いその一撃を、白崎は軽々と横に避けた。ガツン、と鈍い音が響いた次の瞬間、彼女は隙を晒した暴行犯の頸の辺りを狙って、消化器を振り下ろす。
「いっ──?」
何をされたのか解らない。そう言いたげに目を見開いて、少女はその場に倒れ込んだ。被っていたパーカーのフードが翻り、黒い短髪と共に隠された正体が露わになる。思わず絶句した。暴行犯の正体は、私の教え子のうちの一人。白崎と同様に頻繁に理科室を訪れていた、真面目な印象の女生徒だった。
「全く、先生も罪な御方ですね」
意識を失った少女を上から眺めつつ、白崎は呆れ気味に呟いた。
「顔立ちの良さはさることながら、どの生徒に対しても面倒見がいい。そりゃあ色んな女に好かれますし、目をつけられますよ」
そう言ってこちらに向けられた瞳は、脳裏を巡る恐怖を一気に打ち払ってくれるほど、慈愛に満ち溢れていた。
「ですが、もう大丈夫です。わたしのそばに居る限り、先生はわたしが護ります。どんなに凶暴な猫ちゃんが来ても、わたしが追い払ってあげます。かつてあなたがそうして下さったように」
暗闇の中で、白崎は微笑む。そうして一歩ずつ割れたタイルを踏み締めて歩み寄ると、私の前でしゃがみ込んだ。瞬間、目の裏で、パチパチと火花が散った。脳の中で埋もれかけていた記憶が覚醒し、裏から蓋を開けようと必死になっている。
そうだ、思い出した。私は確かに白崎を救い出した。
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