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「楽器、濡れるよ」
少し低めの、若い女の人の声。僕は顔を上げる。
僕に傘を差しだしていたのは、黒いワンピースに身を包んだ少女だった。身長は僕と同じくらいかやや低いか。少し湿った黒髪は肩辺りまでで軽くウェーブしていた。はっきりした目元に、赤い林檎のような唇。でもまだ少しあどけなさの残る顔立ち。年も同じくらいなのかもしれない。
「ありがとう」
僕は素直に礼を言う。
「どういたしまして」
少女は淡々と返した。ここまで表情一つ変えなかった。不機嫌なのかなと思ったが、元からこういう表情なのかもしれない。
「助かったよ。でも、どうして僕を傘に?」
「君じゃない。そのバイオリンが、雨に濡れて可哀想だったから」
にべもない返事。でも、それが正しかった。人間は濡れても乾かせば問題ないが、楽器はそうじゃない。この少女はよく楽器のことをわかっている。
「……君も、バイオリンを弾くの?」
「いいえ。私はピアノしか弾けないわ」
「そっか。……いつか聴いてみたいな」
生のピアノの音色を聴いたのは、母さんが死んだ日が最後だった。音楽の授業がある日は学校に行かなかった。中途半端なピアノを聴くとどうしても母さんを思い出してしまうから、それが怖かったのだ。
でも、この少女のピアノは聴いてみたいと思った。どうしてか。多分、これくらいは普通の社交辞令の範囲だろう。
「いいよ。君のバイオリンを聴かせてくれるなら」
「うん、そうだね……え?」
まさか受諾されるとは思っていなかった。
「だから、君のバイオリンを聴かせてくれるなら、私のピアノを聴かせてあげるって」
無表情だった少女は初めて表情を動かして――ただ不機嫌そうに眉を顰めて言った。
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