Postlude

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Postlude

 あれから僕はどうなったかわからない。  気が付いたら少女の家にいて、少女に借りたタオルで髪を拭き、それから――バイオリンを構えて立っていた。目の前には少女のものと思しきグランドピアノ。もう何が何だかわからない。  今の僕にわかるのは、ただバイオリンを弾きさえすればいいということだ。  すぅ……    優しく丁寧にね。母の言葉がこだまする。空気が優しく振動した。  タイスの瞑想曲。  これは僕のお気に入りだったし、今僕が欲している音楽だった。目の前の少女に幸せになってもらいたいという気持ちを込めて演奏する。いつも通りだった。  少女は目を瞑って聴いていた。途中あんまりにも反応が無いので寝入ってしまったかと思った。けれど僕はそれでもよかった。人が寝入ってしまえるくらい癒しの音楽をつくりたかったから。ただ心を込めて弾き続ける。  最後の一音を弾き終えた。ここはホールではなかったが、やはり余韻は心地が良かった。音が完全に消えたあと、僕はそっと楽器をおろした。  ぱらぱらと拍手がする。いつもの爆発みたいな拍手じゃなくて、一人からの拍手。なのに、僕は嬉しかった。僕の演奏を聴いてくれた人がいる。それは僕にとっての支えだった。 「いい音ね。私の好きな音。君が奏でるのは染み込むような音楽なのね」 「そうなのかな。そうだと嬉しいかも。……聴いてくれてありがとう。じゃあ、君の番だ」  そう言って僕は逸る気持ちを抑えるように楽器を片付けようとする。久しぶりに生の、母さん以外のピアノを聴く。 「ちょっと待って」  少女の声が僕の行動を制する。意味が解らなかったが、僕は静止した。 「どうしたの?」 「ただ、楽器を持ってそこに立ってて」  少女の意図は全く読めなかった。でも、僕はその通りに立った。困ったな、バイオリンを触っていると弾きたくなってしまうのに。  少女は静かにグランドピアノの蓋をあけて準備をする。楽譜なんておかなかった。椅子に浅く腰掛け、鍵盤にすらりとした白い手を置く。  僕は固唾を呑んで見つめていた。  一音目を聴いた瞬間、僕は彼女の音楽の虜になった。優しくて丁寧な音。どこまでも繊細で、同時に深みのある音。揺り籠に揺られるような気持ちにもなる。特徴のあるアルペジオ。  ――これは、タイスの瞑想曲の伴奏だ。
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