Postlude

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 僕は少女のピアノを聴こうとしているのに、彼女はタイスの瞑想曲の伴奏を弾き始めた。僕は本能的にバイオリンを構えてしまった。違う、聴き入るはずだったのに。  あと一小節でもう入らなければならない。ああ、少女の音を聴きたい。でも、この伴奏に合わせて弾けたらさぞかし気持ちが良いんだろうなと思った。  少女と目が合う。どこまでも澄んだ瞳なのに、彼女は悪戯っぽく笑って見せる。僕が初めて見た彼女の笑顔だった。それは世界で一番うつくしかった。  ああ、もう。  気が付いたら弓の毛と弦が触れ合ってた。空気が震えて音楽が奏でられる。  彼女のピアノと僕のバイオリンは、パズルのピースが嵌まるようにぴったりと噛み合った。まるで、もう何百回も合わせたことのあるような、慣れ親しんだ感じ。  彼女のことは何も理解ができなかったけれど、音楽だけはどこまでも通じ合った。  僕は母さんのピアノ以外、誰とも合わせたことがなかった。母さんのピアノが絶対で、僕はそれに安心していたのだ。他の人のピアノなんて考えられないくらいに、母さんのピアノが大好きだったから。  なのに、今はもう彼女のピアノしか入ってこない。彼女のピアノは僕のバイオリンを拾い上げてくれたし、僕は彼女のピアノの上で踊った。  ちらりと彼女の表情を見る。どこまでも活き活きとした少女の顔。あの時の無表情はどこへ、というほどに音楽を愛し音楽に愛されている表情だった。  もう僕の目の前が音楽で埋め尽くされる。息を吸うたびに音楽が入ってくる。ここが何処かを忘れる。母さんも父さんもここにはいない。僕と彼女だけの世界。僕は生まれて初めて、心の底から僕の音楽を楽しんだ。何よりも楽しくて幸せな時間だった。誰のためでもない、僕のための音楽。  この瞬間、僕の音楽は僕のくすりになった。  あのだだっ広いコンサートホールでもなく、慣れ親しんだ母さんのピアノの横でもない。ただピアノがぽつりと置いてあるだけの何の思い入れもない部屋。そこで僕は、今まで生きてきた中で一番の音楽を奏でる。    最後のハーモニクスがピアノの低音と混ざりあいながら天井へと溶けた。
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