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曲が終わった後、暫く無音が部屋を支配した。
二人とも、身じろぎせず言葉も発さず、ただじっと余韻に浸っていた。少なくとも僕は動かなかったというより動けなかった。ただ二人で奏でた音楽に痺れていた。
ふと少女の方を振り返る。少女もこちらを見遣る。彼女の頬はほんのり色づいており、目はわずかに潤んでいた。
「たのしかった」
少女はぽつりと零す。瞳から一筋涙が零れた。
「僕も、たのしかった」
視界が滲む。どうしてかわからない。感情がどうにもこうにもおかしかった。
たのしかった。幸せだった。なのに、どうしてか涙が溢れてくる。
慌ててバイオリンをケースに置いた。折角雨に濡れなかったのに、僕の雨で濡らしてしまう。
「私ね、今日でピアノをやめようと思っていたの」
でもこんなにたのしいなんて。そう言って彼女はまた涙を流した。
「どうして、やめようと思ったの」
あんなに音楽を楽しんでいるように見えた彼女の言葉が意外だった。
「それはね、私の音楽が嫌いだったから」
彼女の言葉を聞いてやっと気づいた。僕は、僕の音楽が嫌いだったのだ。母さん一人救えなかった僕の音楽が。僕自身ですら救えない僕の音楽が。
「君はどうして雨の中を歩いていたの。こんな真夜中に、傘もささずに」
今度は彼女が訊ねる。
「僕は――僕も、僕の音楽が嫌いだった。でも、僕にはバイオリンしかない。だからどうしようもなくて歩いていたんだ。でも、ちょっとだけ僕の音楽が好きになれたかも。君のおかげで」
死んでしまった母さんは、この喜びを感じられなかったのだろうか。
「君と奏でる音楽が何よりも幸せだった」
「私も、君との音楽が一番たのしかった」
――優しく、丁寧に。みんなのくすりとなれるような音楽を目指しなさい。自分が幸せになれるような音楽でないと、全員のくすりにはなれないからね。
母さんは自分ができなかったことを僕に託したのかもしれない。
そこからは堰を切ったように僕たちは泣いた。泣いている理由も、お互い背負っているものも違ったのだろう。けれど、音楽だけは通じ合った。僕らはお互いの名前だって知らない。年齢だってわからない。わかるのは彼女がピアノ弾きで、僕がバイオリン弾きということだけだった。でも、それでいい。
今この瞬間、音楽は正しく僕たちのくすりだった。
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