Prelude

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Prelude

 僕の音楽は人を癒す力があるらしい。  これは僕の主観ではなく、人からの評価だ。僕のバイオリンを聴いた者は例外なくそう言ったし、僕はその評価に満足していた。僕の音楽は人を癒すために存在するのだから。そうでなければならない。  音楽を何も知らない父さんは僕をバイオリニストにさせたがった。同僚に自慢したいんだって、酒に酔ったときに言っていた。  ピアニストの母さんは僕をバイオリニストにさせたがらなかった。好きなことを職業にすると苦しいよといつも僕に言っていた。  僕は母さんの苦痛を癒す為にバイオリニストになった。  ♢  ライトが煌々と輝く中、僕はステージを歩く。客席にはお客さんがいるはずだけれど、暗がりに沈んでいる所為で特に何の感慨も浮かばなかった。もう慣れてしまったからかもしれない。父さんに借りた革靴が照明に照らされて歩くたびに輝いた。  ただ静まり返ったホールで僕は一人バイオリンを構える。時折、どこかでだれかが咳をした。ホールは乾いているから仕方がない。  すぅ……  初めの一呼吸が大事だと母さんは言っていた。音楽を奏でる時は優しく丁寧にね、とも言っていた。僕は生まれてこの方、その言いつけを破ったことはなかった。  弦に弓を乗せる。あとは滑らせるだけ。バイオリンというものはたったこれだけで音が鳴るのだから不思議だ。寧ろ力を入れてはいけない。優しく丁寧に。  バッハの無伴奏ヴァイオリンパルティータ第三番。  ただ僕の音だけが広いホールに響き渡る。僕だけのためのステージ。僕の方に顔を向けているライトは優しく僕を温める。  弾いていくにつれ、客席の空気が和らいでいくのを肌で感じた。それは少しだけ心地よいのだけれど、無意識に母さんの姿を探してしまう。ここにいるはずがないのに。  母さんは去年、自分から死へと向かっていった。当時十四歳の僕は、ただそれを見ているしかなかった。  僕は、僕の音楽は母さんを救えなかったのだ。  音楽は人を癒す為にあるんだよと言った母さんは、人知れず音楽に傷ついて死んだ。母さんを幸せにするためにバイオリニストになった僕は、どうすればいいのかわからないまま今日もバイオリンを弾く。    曲が終わった。最後の音まで丁寧に。弾き終わった後の余韻が僕の一番好きなところだった。そうして余韻に浸っているうちに音はホールに溶けるようにして消えた。  拍手が僕を迎える。お客さんの微笑み。お辞儀をする寸前、小さな子供が最前列で寝入っているのが見えた。少しだけほっとした。  僕は誰かの何かを癒せたのかもしれない。そうであってほしかった。だって、僕は僕の音楽に癒されたことなんてなかったのだから。
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