第10話

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第10話

 再び敬礼して三人は本部長室を辞した。十六階建て最上階からエレベーターで二階に降りて機捜の詰め所に戻る。そこで京哉は不在中のことを考え、改めて上司二人に書類仕事を割り振った。午前中ずっと留守番だった小田切は不満たらたらである。 「京哉くんたちがいない間も俺は書類漬けなんだぜ?」 「だから何ですか? あれだけスパイを拒否したのは誰なんですか?」 「いや、国内で市内の大学なんだよな。スパイごっこもいいかもって思えてさ」 「ごっこでは済まないのが特別任務ですよ、聞いていたでしょう?」 「けど市内の大学に潜入するくらい、チョロいって」 「まあ、少なくとも霧島隊長が潜入するよりは簡単でしょうけどね」 「だろ? そんなにムキにならなくてもいいと思うんだけどな」 「そういや前に暴力団潜入の変装見ましたよね、隊長の?」 「見た見た、アレで大学は威力業務妨害で現逮モノだよな」  思わず京哉は小田切と笑ってしまったが、それでも京哉は自分の傍にいるのは常に霧島だと思ってきたので、あそこまで言い募り役目を交代してくれたのは非常に嬉しかった。  おまけに今回は国際線での禁煙地獄も頭上を砲弾が飛び交うこともないのである。仮にも特別任務で舐める訳にいかないのは霧島が言った通りだが、それでもいつもの特別任務よりは『チョロい』と思わないでもなかった。  良い意味で小田切たちと交代しなくてラッキィだったかもと思った。  とにかく明日から霧島と二人でキャンパスライフだと思うと正直心が浮き立ったが、当の霧島に目をやると首尾良く小田切と役目を交代したにも関わらず、ただノートパソコンに向かってボーッとしている。片手だけでポチポチとキィを打って仕事をしていた。  それにしたって上の空で心配になり濃い茶を淹れてデスクに置いてやったが、僅かに頷いただけである。傍に立ったまま京哉はそっと訊いてみた。 「隊長、何処か具合でも悪いんですか?」 「ん、ああ、いや。何でもない。大丈夫だ、問題ない」  ふいに霧島がノートパソコンのウィンドウをひとつ閉じた。消す寸前にそれが連続強殺の資料だと京哉は見取る。お蔭で当然の事実に気付くことができた。霧島警視は連続強殺のマル被を追えないのが悔しいのだと。スパイより警察官でいたいのだ。 「すみません、霧島警視」 「何だ、いきなり。何を謝る?」 「いえ……何でもありません」  灰色の目で見上げられて京哉は首を横に振った。自分が謝っても筋違いと言われるだけと京哉はもう心得ている。そこで甘い顔をせず敢えて景気のいい声で煽った。 「明日は明日の書類が降るんですから、今日の書類は今日終わらせましょう!」 ◇◇◇◇  窓から射し込む朝の日差しに白い肌を透かせた京哉は目を覚ました。  目を覚ましたが躰を起こすのも容易ではなかった。全ては昨夜の霧島の所業、いや、今朝方までの霧島のせいである。  当の霧島は上機嫌で自分の変装と着替えを済ませると、京哉にドレスシャツとスラックスを着せ、タイも締めてからショルダーホルスタで銃を吊らせる。  食事当番も交代して霧島が作ったバゲットのフレンチトーストに冷凍ほうれん草と京哉の好きな赤いウインナーの炒め物に、カップスープとコーヒーを二人は急いで腹に詰め込んだ。その間も霧島はご機嫌である。対して京哉は腹より頬を膨らませて怒りの表現だ。 「ったく、今日から特別任務なのに、油断も隙も無いんですから」 「すまん、お前が綺麗すぎて。だが良かっただろう?」 「知りません!」  そうしてプリプリと怒りながらも京哉は霧島を観察する。昨日の帰りに購入したカラーコンタクトを入れて灰色の瞳を黒くしている上に、京哉の伊達眼鏡までかけているので妙な感じだ。かなりの別人感があり、これなら一見して霧島忍だとはバレない筈である。  だが着用している衣服は以前の潜入時にも使用したもので、ダークスーツにドレスシャツまでブラック、ナローなタイはセンターに一本、銀色のラインが刺繍されているという代物だ。  本人曰く『社会人学生だからスーツで良し』なので京哉も敢えてスーツにしたが、霧島の格好はどう見てもヤクザの上級幹部だった。それにメタルフレームの眼鏡で、まるきり経済ヤクザといった風情である。だが今更文句をつけても間に合わない。  とにかく正体がバレなければいいのだと京哉も割り切って、ご機嫌な霧島に曖昧に笑って見せた。  食し終えると京哉が一本煙草を吸う間に霧島が片付け、ジャケットとコートも着せてくれて靴を履かされる。ブラックのロングコートを着た霧島に月極駐車場の白いセダンまで運ばれ乗せられた。その四十五分後には県警本部長室のソファに二人は鎮座していた。  霧島を一瞥し、一ノ瀬本部長は三秒ほど動きを止めたがそれだけだった。さすがだ。 「あー、ゴホン。これがきみたちの学生証だ。あと、このUSBフラッシュメモリにテキスト等が入っているので持参するように。だが闇雲に受講しても仕方がないのでランディ=フォードの履修科目にきみたちの名もオンライン登録してある。基本的にそれに沿って動くといい。学生ナンバーでアクセスすると履修科目が分かるそうだ。質問は?」 「ありません」 「では、本日は十時二十分から九十分の一コマと十三時からの一コマで、病理学と免疫学だそうだ。しっかりランディ=フォードを監視してくれたまえ。以上だ」  学生証とUSBメモリをコートのポケットに入れて本部長室から出る。変装しているため機捜には寄れず、そのままエレベーターで一階に降りた。  正面エントランスから出ると駐車場を縦断し大通り沿いの歩道に立ってまずはタクシーを捕まえる。乗り込んで「青峰大学まで」と告げておいて霧島は京哉に囁いた。 「九十分一コマか、眠たくなりそうだな」 「講義は寝てても飛んでてもいいですけど、ランディ=フォードは捕捉して下さいね」  念を押された霧島は京哉から携帯に取り込んだ画像を見せられる。 「ふむ、これがランディ=フォードことカール=フェリンガーか。想像より若いな」  薄茶色の瞳で黒髪の男は、京哉と霧島の中間くらいの年齢だと思われた。 「はるばる日本まで来て学生相手に資金獲得活動なんてご苦労な話ですよね」 「だが分かっているだろう、あそこなら金づるには困らん」 「確かに目の付け所は悪くないですよね。良家の子女が通う名門私立ですし」 「おまけに反体制集団にとって日本の資産家は敵でもあるからな」 「資産家、昨日の入管のお役人が言ってた『難色を示した日本国内の重鎮』ってヤツですね。最悪の形でバレるより普通に入管が大金星にした方がいいと思いますけど」 「それを回避するための我々でありスパイ作戦だ。だが思い通りにならんというのがお約束の特別任務、気は抜けんな」  頷いて京哉は窓外を眺める。白藤市内の繁華街を避けたタクシーはバイパスに乗り快調に走っていた。この分なら十時二十分の講義には余裕で間に合いそうである。 「その難色を示した重鎮の娘や息子が金づるになってるんでしょうか?」 「わざわざバルドールなどという国からアラキバ抵抗運動旅団が日本くんだりまで人員を派遣したんだ。ターゲットの金づるが金持ちなのは当然だ。それは既に予想でも何でもない事実だろう。そこでランディ=フォード側から探るか、ターゲット探しから始めるか」 「結局はランディ=フォードが噛んでいる『金づるからカネを吸い上げるシステム』を探り出せっていうのが僕らの今回の特別任務ですね」 「そういうことだ」  そんなことを喋りながらもシートの上では指先同士を絡めている二人だった。  タクシーは九時四十分に青峰大学に到着した。  料金を支払って降りると、霧島は昨夜から今朝まで躰を酷使させてしまった京哉の背にさりげなく手を添えてゆっくりと歩き出す。そうして青銅の門扉が開かれた正門からいよいよ潜入だ。人の良さそうな初老の守衛に学生証を見せ、会釈して大学構内に入る。  内側から見渡すと昨日外から見た印象より随分広く感じられた。まだ新しい十階建てほどの細長いビルと、どっしりした七階建てくらいの建物の間に木々と芝生のスペースが大きく取られてまるで公園のようにも見える。  緑のエリアの中は小径が通りそれぞれの建物を繋いでいた。至る所にベンチがしつらえられていて学生たちが語らっている。都市部にこれだけの敷地は破格の贅沢だ。さすがは上流階級者の子女御用達という感があった。    それらを眺めつつ携帯でホームページを見ながら京哉がガイドを務める。 「あの奥の細長いビルが大学管理ビルで、右のグレイの六階建てが情報工学部。左のレンガ張りの八階建てが薬学部。その更に左の白い七階建てが医学部ですって」 「手前の小さい三階建てが売店に食堂か。ベンチに灰皿はお前は感謝すべきだな」 「有難く充実した施設の恩恵に与りますよ」  寄り添った二人は建物のある方に歩を進めた。 「管理ビルにも幾つか食堂はあるけれど一階以外は職員用だそうです」 「薬学部だったな、私たちは」 「はい。三回生で、まずは病理学から。五階P5教室って本部長が言ってました」  寒いが天気は上々で、左のレンガ張り八階建てに向かって二人は散策気分で歩く。
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