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第15話
走り出したタクシーの窓外を霧島はじっと眺めていた。書類仕事を放擲しては普段警邏などで行き来している道を覚えているのかいないのか、表情からは読めない。
そうして県警本部に着くと京哉は少し考えて裏に駐めた白いセダンに向かい、霧島を助手席に乗せた。自分は運転席に収まると携帯で一ノ瀬本部長に現状報告をしてからマンションに帰ることにする。本部長は霧島が記憶喪失と聞いて大層焦っていた。
構わず京哉は白いセダンを出してマンションに向かって走らせ始める。けれどそれこそ毎日通っている道を霧島が覚えているのかどうかも分からなかった。霧島はサイドウィンドウの外にばかり灰色の目を向けていて、殆ど京哉を見ようとしない。
真城市内のマンション近くの月極駐車場に着くまで互いに何も喋らなかった。
また霧島をゆっくり歩かせてマンション五階の角部屋五〇一号室に辿り着く。京哉がキィを出してロックを解きドアを開けた。玄関で霧島を促して靴を脱がせると上がらせる。
リビングのエアコンを入れて温かな空気が充満するまでの間、霧島はコートも脱がず銃も吊ったままで、じっとキッチンに立ち尽くしていた。記憶を探っているのか。
「覚えていませんか?」
「いや、何となく分かる……気がする」
ということは覚えていないのだろう。京哉が電気ポットの水を取り替えてセットするのを見ながら霧島は少し考えてからポケットを探り煙草を取り出して一本咥えた。火までは点けない。そこで京哉は手を差し出して霧島に笑いかけつつ言ってみる。
「吸うのは構いませんが、オイルライターは僕のです」
「ん、ああ、これか。これも見たことが……あるような気がする」
「これ、忍さんの父上から僕が頂いたものですから」
「そう、か……私には父もいるのか」
「取り敢えずはこの部屋での生活に慣れてから会いに行きましょう」
返されたライターを換気扇の下にあった灰皿と一緒にしてテーブルに置いた。
「いつまでもそのままじゃ重たいでしょう。こっちに来て下さい」
寝室に霧島をつれて行きコートとスーツのジャケットを脱がせ、ショルダーホルスタを外してやる。自分も同様にするとベッドサイドのライティングチェストを示した。
「手錠ホルダーに特殊警棒だのが着いた帯革や、銃とホルスタにスペアマガジンなんかのサツカングッズは、全てこの引き出しが定位置ですからね」
二人分の銃その他を並べて引き出しを閉め、あとは自分がチェックのシャツにセーターとジーンズの普段着に着替える。脱いだものをハンガーに掛けながら説明した。
「貴方は普段からドレスシャツとスラックスですが、この際ラフにシャツとカーディガンなんかどうです? あ、でも全身打撲だから却って全てオーダーメイドのドレスシャツやスーツ類の方が楽かも知れませんね」
「ん、ああ、この格好で構わない」
「そうですか。やっぱり普段通りの格好が落ち着くのかな。でも外に出る時はジャケットとコートをちゃんと着て下さいね、風邪を引きますから。了解?」
「ん、ああ」
「じゃあ洗面所でしっかり手洗いとうがいです。そうしたらコーヒー淹れますから」
明るく言い洗面所につれて行く。自分も洗面所を使ったのちキッチンに戻った。マグカップ二つにインスタントコーヒーを淹れたが霧島はふらりと寝室に消える。椅子に腰掛けて京哉がコーヒーを飲んでいると霧島が出てきた。右手に銃を持っている。
そのまま霧島はキッチンではなくリビングの二人掛けソファに腰を下ろした。僅かに淋しい気もしたが京哉は表情に出さず、噛んで出来た舌の傷を考慮して少し冷ましたマグカップをロウテーブルに置いてやり、自分はまたキッチンの椅子に戻る。
続き間で引き戸は開け放してあるので霧島の様子はちゃんと分かった。
眺めていると霧島はロウテーブルでシグ・ザウエルP226の分解結合を始める。
「そういうのは覚えてるんですね」
「手が勝手に動く」
「でも左腕は吊っておかないと。折れたら困るからギプスも巻いてあるんだし」
言われて納得したのか霧島はまた立って銃をしまいに行き、戻ってくると思い出したようにキッチンのテーブルに置いてあった煙草を手にした。抜いていた一本を咥え直してオイルライターで火を点けると灰皿がこちらにあるからか、今度は京哉の向かいの椅子に座る。
京哉はリビングのマグカップを回収し、再びぬるめのコーヒーを淹れてやった。
「病院で聞いて、私は自分を刑事だと思ったんだが学生だったのか?」
「えっ、どうして?」
「これが……」
と、ポケットから青峰大学の学生証を出し、
「コートに入っていた」
咥え煙草で喋る霧島は結構本気で悩んでいるらしい。微笑んで京哉は立つと自分の学生証を持ってくる。すると余計に混乱したか霧島は黙り込んでしまい、京哉は少々慌てた。
「刑事っていうより貴方は機動捜査隊長です」
「そう言えば病院でも隊長、警視と言われたが、私はそんなに偉いのか?」
「忍さんはキャリアですから。キャリアって分かりますか?」
「ああ、分かる。だが機捜隊長がどうしてこんなものを持っている?」
「捜査でね、学生のふりをしてただけです」
そう言ったが霧島は納得していないようである。切れ長の目を眇めて見返された。潜入捜査など機捜隊長の職掌にないのだから当然だ。そこを深く突っ込まれたくなかった京哉はテーブル上の煙草を手にすると一本咥えてオイルライターで火を点ける。
「それで、霧島忍と鳴海京哉は結婚しているのか?」
「ぶっ、ゲホゴホ……何です、いきなりそれは?」
「病院で刑事が私のことを『ダンナ』とも言っていた」
「まだ日本の法律で同性婚は認められていないんですけど」
「分かっている。だが同じ指輪もしているし、事実婚ということもあるだろう?」
切れ長の目の真剣な色に笑うこともできなくなって、京哉は考えつつ答えた。
「うーん、どうなんでしょうね。忍さんが感じたままに思ってくれたらいいですよ」
そこでやや俯いて考え込んでしまった霧島に京哉はふっと微笑む。
「無理しなくていいですから。僕のことは気にしないで下さい」
「無理はしていないが、気にはなる。一緒に住んでいるのだろう?」
「あー、ええと、そうなんですけど、ほら、リビングのソファでも眠れますから僕」
「ベッドはダブルだったが」
「でも僕、コンパクト設計ですし、それにそもそも貴方との出会いからして結構いい加減で、貴方から『誰でも良かった』なんて言われちゃったくらいですし」
何だかもう自分が喋るたびにドツボに嵌ってゆくのを痛切に自覚し、泣きたい気分になった京哉だったが、今現在の状態の霧島に対して都合良く自分を刷り込むことはできなかった。
それなら迷走せずにあるがままを告げたら良さそうなものだが、自分と関わり霧島が傷ついたことを数え上げてしまい、すっかり自信を失くしていたのである。
自分は霧島がいなければもう生きてはいけないほどに愛してしまった。
だが霧島にしてみたら疫病神のようなこの自分と関係を断つチャンスなのではないかと思ったのである。
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