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第16話
記憶を失くして生活に困難を生じる霧島を京哉はいつまでだって手を貸し見守るつもりだが、何もそれは躰の関係まで続けなくてもできることだ。
考えていると、そこでふと霧島の僅かな表情の変化に気付く。
「あちこち痛むんでしょう。薬貰ってるから、ちょっと待ってて下さい」
冷蔵庫から出したミネラルウォーターをグラスに注ぎ、ポットの湯を少し足してぬるくすると、シャツの胸ポケットから錠剤のシートを出して霧島に手渡した。
「これを飲んだらベッドで絶対安静ですからね」
この手の言葉に返事をしない辺りはまるで変わらない男は錠剤を水で流し込むと、煙草を咥えようとする。それを奪い取って京哉は霧島を寝室に追い立てた。容赦なくパジャマに着替えさせる。有無を言わさずシーツとブルーの二枚掛け毛布の間に大柄な男を挟み込んだ。
自分はキッチンの椅子を持ち込んで監視態勢だ。
「何か要るものがあれば言って下さい。三日は寝てて貰いますからね」
「三日とは、ふざけているのか?」
「ふざけてません。主治医の指示で傷病休暇です」
そう返した京哉だが霧島だって失った過去を取り戻したいのだという当然のことを理解している。だが満身創痍の霧島を止め得るのは自分だけだという自負もあった。
「焦らないで下さい。腕も休めないと治りませんよ。少し眠ったらどうですか?」
「ああ、まだ十七時か。けれど眠い気はするな」
「薬の効果と躰が休養を求めてるせいですよ、きっと」
「では、悪いが少し寝るぞ」
「何も悪くないですって。おやすみなさい」
肩まで毛布を被せてやると霧島は目を瞑る。まもなく静かな寝息が聞こえ出した。その端正な顔を暫く眺め、京哉は立ち上がると寝室を出てから大きな溜息を洩らす。
あんな状態の霧島の前でだけは溜息をしない。そう心に決めていた。
夕食は口内の傷に優しく消化に良いものを作ろうと黒いエプロンを身に着ける。キッチンで冷蔵庫の中身と相談しリゾット用に野菜を刻んだ。
やることがなくなり何となく心配になって寝室を覗く。だが触れたくなってしまうのでキッチンに戻り、また寝室を覗く繰り返しで三度目に霧島は灰色の目を開けた。
「すみません、起こしちゃいましたね」
「いや、殆ど起きていた。思ったほど眠れないものだな」
起き出した霧島に手を貸しアームホルダーを着けさせ左腕を吊る。本人は鬱陶しそうにしぶしぶといった風だが京哉は許さなかった。この辺りもやはり変わらない。
「少し早いけど、ご飯食べられるなら今、作ります」
「ああ、腹、減ったような気もする」
所在なさげに立ったままの霧島をリビングの二人掛けソファに座らせ、京哉は黒いエプロンを着け直してキッチンに立った。
調理をしながら時折窺うと霧島はぼんやりと煙草を燻らせている。それを見て京哉は知識量といい、霧島は煙草を吸っていたという大学時代くらいに記憶が後退してしまったのかも知れないと思った。
そんなことを考えつつ手早くリゾットとポーチドエッグを作り上げると、口内の傷になるべく障らないよう全てを少し冷ましてから霧島に声を掛ける。
キッチンの椅子に向かい合って腰掛け、二人は静かに会話しながら食事を摂った。
「私は機捜とやらに何年くらいいるんだ?」
「うーん、それはちょっと分からないかも。年齢からしてそう長くないと思いますし、キャリアは普通なら最長二年で異動と聞いてますから……普通なら、ですが」
「では京哉は何年くらい機捜にいるんだ?」
「僕は前の春からだから、まだ十ヶ月くらいですね。貴方とバディを組んで十ヶ月経っていないってことです。バディって分かりますか?」
「それは分かる。だがバディというだけで飯の世話だの同居だのはしないだろう?」
「ご飯は一週間交代で……もしかして作り方が分からないとか?」
「確かにこれの作り方など想像もつかんな」
目前の食品を眺めて霧島は嘆息する。料理も忘れてしまった霧島が妙に愛しくて、京哉は微笑むと作ってやりたいメニューを思い浮かべては心の中にメモし始めた。
殆ど噛まず飲み込める食事を済ませると、京哉はまた霧島に痛み止めを飲ませる。食器を洗浄機に入れ食後のコーヒーを一杯ずつ飲むと京哉は宣言した。
「シャワー浴びてくるから少し待ってて下さいね」
「ん、ああ」
手早く入浴を済ませたが、まだ二十時前なので普段着を身に着けた。それで出て行くと霧島はリビングでソファに腰掛け、茫洋とTVニュースに目を向けていた。
「私も風呂に入りたいのだが」
今日怪我したばかりの霧島を風呂に入れていいものか悩んだ京哉だったが、何故か躰を拭いてやるというのも気が引けてしまい、腕のギプスに巻いた包帯を解いてやった。固定していたのはギプスシャーレなる半分に切れていて取り外せる優れものだ。
「あんまり長湯はしないで下さい」
一方、送り出された霧島はバスルーム前の洗面所でパジャマと下着を脱いで洗濯乾燥機に放り込み、バスルームで頭からシャワーを浴びた。だが熱い湯が身体中に沁みて、慌てて低温設定にする。壁の鏡で見ると背中一面が見事に青黒く染まっていた。
銃撃を受けた挙げ句に四階から落とされたというのは聞いていた。
四階から落とされたのに腕と肋骨のヒビで済んだのは僥倖だが、自分がどうしてそんな目に遭ったのか分からない。
捜査で学生のふりをしていたと京哉は言っていた。潜入捜査で警察官という正体がバレて銃撃を食らった……なんて物騒な大学なんだろうと思う。
機動捜査隊長という職を詳しく知っている訳ではないが、現場の捜査官たる警察官を目指していた者として、ある程度の知識はあった。
自分が本当に機捜隊長職にあるのなら、言えるのは潜入捜査は職掌外だということと、もし目前に事件とそれを解決するヒントがあれば、自分は放置できずに食いつくだろうということだ。
後者なら危険なホシを追い、銃撃された説明がつかなくもない。
だがそうすると、どう考えても京哉はこの自分に嘘を吐いていることになる。
何故嘘を吐いてまで誤魔化すのか。ペアリングを嵌める仲というのは霧島基準では京哉に尋ねたように、結婚または事実婚くらいの意味だと思っていたが、記憶の有った自分は違ったのか。
自分としてはそこまで親しかった筈の京哉に距離を置かれているような気がするのはどうしてなのか。謎だらけで鳴海京哉という人物が解らない。
それでも息苦しくない程度の寄り添い方をしてくれる京哉が嫌いではなかった。
置かれていたシェーバーでヒゲまで剃ってシャワータイムを終え、上がると洗面所の棚にあったバスタオルで全身を拭った。京哉の手に依るものだろう、洗濯乾燥機の上に替えの下着とパジャマが綺麗に畳まれて置かれている。
有難く身に着けて出て行くと京哉の姿が見当たらない。僅かに探したい欲求を抑えた。気配はしているので部屋にいる筈だ。
おそらく寝室にでもいるのだろうと思い、取り敢えず霧島は喉の渇きを癒そうとキッチンでマグカップにインスタントコーヒーを入れ電気ポットの湯を注ぐ。
そうしていると霧島が着用しているのとお揃いのパジャマを着た京哉が出てきた。少し長めの髪。黒いシルクサテンのパジャマに白い肌が映えて素直に霧島は綺麗だと思う。
見とれているとマグカップからコーヒーが溢れた。
「わあ、もういいから座ってて下さい!」
「……ハイ」
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