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第2話
だがスーパーカガミヤへの道のりも半ばで異変に気付く。女性の短い悲鳴が聞こえたのだ。咄嗟に霧島と京哉は顔を見合わせ走り出している。
ここ真城市は県警本部もある隣の白藤市のベッドタウンで住宅街がのっぺりと広がっているが、それだけに外灯も多い。間近な明かりですぐに悲鳴の発信源を特定する。狭い路地で男女が揉み合っていた。
片方は髪の長い女性で、もう片方は一見してガラの宜しくない男だった。
「喧嘩ですかね?」
「おそらくな。……こんばんは。県警の者ですが、どうかなさいましたか?」
単なる痴話喧嘩かも知れず、なるべく穏やかに霧島は声を掛けた。するとガラの良くない男は一瞬顔を上げ、女性を突き飛ばし路地の向こうに脱兎の如く駆け出した。
それは明らかに警察に知られて拙い何かを抱えている風ではあったが、女性が座り込んでしまっていて、ただちに追うことは叶わない。
霧島たちも敢えて捕まえたくもなかった。まずは女性に手を差し出して立たせる。
「お怪我はありませんか?」
「……はい。何処も、ありません」
霧島の手を借りて立ち上がった女性は、だが殴られたらしく頬を赤く腫らしていた。しかし逃げた男を庇うところを見ると、どうやら本当に痴話喧嘩だったらしい。
「どうなさいますか、真城署まで一緒に――」
「だめよ! あっ、いいえ、何でもありませんから」
あくまで男を庇おうとする女性を傍から京哉は観察する。キャメルのコートの下は赤いロングドレスで、スーパーカガミヤ周辺にあるスナックか何かで働いているように見受けられた。
これはそのまま放置コースかと思ったが女性がハイヒールの足を引きずっているのを目に留める。突き放された拍子に雪も手伝い足をくじいたらしかった。
「病院に行くなら送って行くが、どうする?」
丁寧語を止めた霧島が訊いたが、女性は乱れた髪のまま頭を振って拒否した。
「家に帰ります。放っておいて」
そうは言ったが再び歩き出した途端にヒールの足が崩れてふらつき、危うく京哉が支えて転ぶのを免れる。このまま雪の中に放置する訳にもいかない。
「家は近いのか?」
「ええ。だからアパートまで歩いて帰れるわ」
「だが這って帰る訳にもいくまい。送って行こう」
そう言うと霧島は女性をすくい上げ横抱きにした。驚いた顔をして女性は暴れる。
「降ろして、自分で帰れるって言ってるじゃない!」
「遠慮をするな、座り込んだまま凍死されたら寝覚めが悪いからな」
身を固くしながらも諦めた女性は大人しくなった。霧島は微妙な視線を寄越す京哉をなるべく見ないようにしながら狭い路地を出ると女性に住所を訊く。幸い女性の家は本当に近くて数百メートルしか離れていないアパートだった。
そのまま誰もが沈黙を保ったまま歩き続け、住宅街でも集合住宅が密集しているエリアに出る。辿り着いたアパートはマンションと言っても差し支えない三階建ての瀟洒な造りで、水商売の女の一人住まいにしては、やけに豪華だった。
あの逃げた男といい、組関係者の紐付きなのかとも霧島は思ったが余計なことは言わない。
女性を抱いてアパートの三階まで階段を上り、三〇二号室の前で女性を降ろす。
「ありがとう、助かったわ」
それだけ言うと女性はコートのポケットからキィを出して玄関を開け、ドアからするりと室内に滑り込んでドアを閉めた。すぐに内側からロックする音が聞こえる。
「助けてあげたのに名乗りもしないなんて酷すぎじゃないですか?」
とうとう我慢ならなくなって京哉が内側の女性にも聞こえるような声を出した。気持ちは分かるが自分の男が警察を避けねばならないような身の上なのだ。
機捜隊長の本業である内勤を放擲したびたび警邏に出て行ってはバンカケする霧島はこんな応対にも慣れている。お蔭で何でもないような涼しい顔をしていたが京哉はまだご立腹のようだ。
「親切心もいいですけど、もう今からじゃスーパーカガミヤも間に合いませんよ」
「ん、ああ、それがあったか。すまん」
「忍さんに謝られても仕方がないんですけど」
それならどうしたら京哉のご機嫌が直るのだろうかと霧島は思案しつつ薄い肩を押し階段の方へ促した。だが異状に気付いて足を止める。先を行く京哉も留めた。
「ちょっと待て、京哉。これを見ろ」
「あ、閉まってない」
廊下を辿って階段の手前、三〇八号室とプレートが貼り付けられた部屋のドアが五センチほど開いたままだった。隙間から明かりは洩れているが、二人で耳を澄ますも中からは何の音も聞こえてこない。霧島はチャイムを押し、インターフォンに声を掛けてみる。
「すみません、警察の者ですが!」
二度、三度と声を掛けるも反応がない。そこで嗅覚が異常なまでに鋭い京哉がハッとして霧島を見上げた。見られて霧島もただごとでないのを知りドアを引き開ける。
「京哉、何処にも触るな」
頷きながら京哉も室内を覗き込んだ。そこにあったのは血塗れの死体だった。
「うわあ、やっちゃった!」
廊下に横ざまに倒れているのは三十代と思しき男の死体で、両手と胸から腹に掛けて血だらけである。玄関マットの上にこれも血の付着した果物ナイフが三本も落ちていた。
「中に上がりますか?」
「ああ。他にもマル害がいたら拙い」
霧島は男の死体の首筋に触れてみたが死後硬直でカチカチだった。救急車など呼んでも意味がないのを確認し、靴を脱ぐと血痕を踏まないよう気を付けながら廊下に上がる。京哉も倣って静かに続いた。
まだ犯人が潜んでいる可能性もゼロではない。京哉は左懐に吊った銃を意識しながらいつでも抜ける態勢で気配を殺す。
通常、刑事は職務中でも銃など持ち歩かないが、機捜隊員はその職務の特性から凶悪犯と出くわすことも考慮され、職務中は銃の携帯が義務付けられていた。
機捜隊員が持つのはシグ・ザウエルP230JPなる薬室一発マガジン八発の合計九発を発射可能なセミ・オートマチック・ピストルで使用弾は三十二ACP弾だが弾薬は五発しか貸与されないという代物だ。
だが京哉と霧島に限っては過去に関わった案件から県下の暴力団に恨みを買っていることもあり、職務時間外でも銃を携行することが県警本部長特令で許可、いや、身を守るよう命じられているのだ。
おまけに特別任務で危険な捜査に就かされるため、銃もシグ・ザウエルP226なる九ミリパラベラムを十六発発射可能な代物を持たされていた。
初めは交換・貸与されていたのが面倒になり、十五発満タンのスペアマガジン各々二本と一緒に持たされっ放しになってしまったのである。
二人合わせて九十二発は何処と戦争するのだろうと本人たちも最初は首を捻ったが、還ったら残弾三発だったこともあったので、なるほどと納得したものだ。
そのグリップを握りながら京哉は霧島に続く。完全には乾ききっていない血溜まりを跨ぎ越し、室内を検分した。ダイニングキッチンに足を踏み入れて気付く。
キッチンと続き間になったリビングでソファに凭れたまま女が一人死んでいた。
「廊下の人と夫婦でしょうか?」
「たぶんな。こちらは胸を一突きに防御創あり、か」
一通り見て回ったが生存者もホシも発見できず、廊下の死体の許に戻る。
「両方とも角膜の完全混濁に死後硬直が全く解けていない。京哉、どうだ?」
「死後半日から一日ですね」
機捜に異動になるまでは真城署刑事課の強行犯係に配属されていた京哉は遅滞なく答えた。そこで霧島が真城署刑事課に携帯で連絡を入れる。
現場を荒らさないよう二人は靴を履き、玄関の外で所轄署員の現着を待った。内廊下でそれほど寒くないのは有難い。
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