黒い棺

12/13
前へ
/13ページ
次へ
     きっかけは、はっきりとは思い出せない。  朝食の用意が遅かったからかもしれないし、母に向かって父が投げつけたコップが、壁に当たって割れたからかもしれない。  あるいは、お前もあの火事で燃えてしまえばよかった、と言われたからか。  気が付いたら、両親の頭をバットで砕いていた。  だが、いつかはそうなるだろうと、ずっと思っていた。  二十年前……否、それよりずっと前から、俺はあの両親のことなど、何一つ顧てはいなかった。  世間もそうだ。あれから一ヶ月は経ったのに、アイツらが死んだことにすら気付いていない。俺が家からいなくなっていることにすら。  けど兄貴は、最期まであの両親を理解しようとしていた。  だから、俺ではなく、兄貴が生きていたなら、と思ったのだ。兄貴なら、あんな父と母でも、愛することが出来ただろうから。  だが、私の目の前にある、火傷をした兄貴の手は、一つの事実を指し示している。  俺を助けたのは兄貴だ。  あの火事に飛び込み、幼い俺を引っ張り上げたのは、二十年の時を重ねた兄貴なのだ。  俺によって助けられた兄貴は、やがて成長した後、この場所へと帰ってくる。そして俺に代わり、幼い俺を救うのだ。  俺と兄貴は、そうやって代わる代わる、お互いを助け続けているのではないか。この黒い棺の中身を、幾度となく入れ替えているのではないか。  何故。何故俺なんかを助ける? 俺を想ってくれたのか。あの公園の時のように。  違う。直感だが、恐らくそうではない。  俺と同じなのではないか。兄貴ですら、あの両親を受け入れることが出来なかったのではないか。  だから俺を頼ったのだ。  だから俺に押し付けたのだ。  今の俺が、兄貴にしようとしているように。だから俺は、兄貴だけを助けようとしたのではないか!  兄貴に生きていて欲しかった。  兄貴なら上手くやってくれると信じていた。  兄貴に全部押し付けたかった。  この世界から逃げ出し、後始末を任せてしまいたかった。  頬を涙が伝う。  何故そんなことが許されると思ったのだ。俺がやりたがらぬことを、兄貴ならやってくれるなどと、本気で思っていたのか。  あの日、公園で言っていたではないか。俺を一人ぼっちにしないでくれ、と。そんなことすら、俺は忘れていたのか。 「兄貴」  返事はない。幼い兄貴の片手は、幼い俺の手をしっかりと握っていた。 「ごめんよ、兄貴。俺が間違っていた……いや、兄貴もか。俺たちは二人して間違えていたんだ。  自分が逃げたいだけだったのを、兄弟を助けたいから、なんて言って……。  大丈夫だよ、もう押し付けたりしない。兄貴、二人で逃げよう。生きる事が最上の喜びだなんて、そう思える奴だけが思ってればいい。そうだろう……?」
/13ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加