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「柳田さん、これ飲んでください」
「どうも」
高屋から肝吸いを渡され、ありがたく受け取った。
なぜか高屋の勤めるアシカガ製作所の本社からほど近い場所にある、鰻屋に二人で来ていた。
食欲をそそる甘いタレの香りが、店の外まで漂っていた。奢りだと言われ、店の中に入ってしまったが、どうして高屋と向かい合って飯を食ってるんだ?
目の前に置かれたうな重は特上というやつで、ご飯が見えないくらい鰻が盛られている。金に困っている人間が食べるもんじゃない。
……鰻なんて精のつくものを食べたのはいつ以来だ?
鰻を箸でつまみ、一口食べた。
……ああ、おいしい。
身は厚くて弾力があるのに、やわらかい。これが天然鰻というやつか。鰻を食べながら、鰻の香ばしさとタレで満たされたご飯を口に入れると、これが幸福かと実感した。
最近の俺にはこれが圧倒的に足りていなかったんだ。
「あの、実は」
ゆっくり味わいながら食べていると、高屋はいつの間にか食べ終わっていた。きっと鰻なんて食べ飽きているに違いない。
こんな美味いものを食べさせてくれる上に、金までくれるなんて、なんていい奴なんだ。
「昨日大家に電話しまして」
「…………」
「下の階の住人から水漏れの連絡は受けていないと言われました」
高屋の眼鏡の奥の目も口調も気弱なままなのに、俺の胸はナイフで切られたみたいに冷たくなった。
「最近引っ越してきたのいうのも嘘で、五年前から住み、最近は家賃の支払いが滞りがちで半年前から滞納していて、もうすぐ追い出されるそうですね?」
「ど、どうしてそれを」
「どれだけ苦しい生活をされているか知りませんが、人の家に勝手に入るのは良くないんじゃないでしょうか? あの洗濯機は前の住人が置いていった物で、僕は一度も使ったことがないんです。あの洗濯機を蹴って壊したのもあなたですよね?」
そう言いながら高屋は、鞄のポケットから吸い殻が入った小さなビニール袋を出した。
「…………」
「まずはなぜ不法侵入したか教えてもらえます?」
……はめられた。
こいつ気弱なふりをして、本当は気がついていたんだ。同情の鰻を食わせた上で、警察に突き出す気か?
「実は、バイト先が潰れて」
「たしかキャバクラのボーイですよね。昼間の仕事は?」
「……一応売れない俳優でして、オーディションを受けるために昼間はカラオケ屋でたまに」
「事務所に入ってるんですか?」
「……事務所も潰れて」
コロナ不況をもろに受けてしまった。ギリギリでもなんとかなっていた生活が崩れてしまった。
「それで仲間と事務所を作ったんですが、仕事がない上に、仲間にも逃げられてしまい、借金だけが」
ここで演技で涙を流せたら良かったのに、悔しさと怒りが大き過ぎてむしろ目が乾き、涙が出なかった。だが高屋は事情は分かったというように、頷いた。
「実はあのアパートは親戚が経営していまして、滞納している柳田さんの話は前から聞いていました」
あのばぁさんの親戚?
「僕は部屋を埋めるためにタダ同然で借りて趣味の部屋にしているんです」
……だからほとんど帰ってこなかったのか。
「もし良かったら柳田さんの家賃を僕に払わせてもらえませんか?」
「え?」
「柳田さんにこれ以上罪を犯してほしくないんです」
高屋の手が、箸を持つ俺の手に触れた。
「…………」
……なにこれ、どういう展開?
「回りくどい言い方はやめて、単刀直入に言いますね」
「…………」
「僕の愛人になってくれませんか?」
タンポポみたいに地味で平凡だと思っていた奴から出た言葉は、なかなかエグかった。
「あなたに毎月それなりのお手当を出します」
「…………」
隣のテーブルの老夫婦に聞こえていないかと確認したが、二人は美味しそうに鰻を食べていた。
……俺は今、愛人の交渉をされているのか? 年が変わらなそうに見える男に?
「家賃はもちろん出しますが、あなたの頑張りによっては十分に余裕のある生活ができるぐらいの額も出せます」
「…………」
自分が男から愛人にならないかと誘われたことがショックで鰻のことなんかどうでも良くなってしまった。
「まずは体の相性から確認しましょう。それで滞納している家賃半年分を払います。これから時間ありますか?」
「えっ⁉ 今日⁉」
「お互いのために相性の確認は早い方が良いと思います」
相性って……。そんなおっさんみたいなこと、こいつ本気で言ってるのか?
「……お、俺はゲイじゃない……」
「その方がポイント高いです」
なんのポイント?
「僕のことは足ながおじさんくらいに思ってもらえればけっこうです。夢を追いかけるあなたにお金を出したいだけなんです」
……キャバクラでエロじじぃがキャバ嬢に言ってるのを聞いたことがある。
まさか俺が言われるなんて。
「とりあえず今日、家賃半年月分だけ稼いじゃいませんか?」
「…………」
テーブルの上で高屋の手が俺の手に触れた。
「…………」
昨日までは盗んででも金を手に入れようと思っていたのに、まさかギリギリ合法ボーダーラインな手段で金を手に入れられるチャンスが来るとは思わなかった。
だけどもちろんタダじゃない。失うもんが多すぎる。
愛人なんて言葉、エロじじぃが若い女にしか言わないと思っていた。しかしそれを言ったのは、タンポポみたいに地味で素朴でのほほんとした見た目の若い男だった。
タンポポのエロいところなんて想像もできないのに。
「ちょっと頑張れば借金返せますよ?」
「…………」
分かってて言ってるのか? この三年間、増え続ける借金に苦しんできた俺にはこれ以上ない殺し文句だ。
こんな言葉にのってはいけない。分かってはいるが、やっと現れた光明に目がくらんだ。
もう借金取りの電話に怯えなくても良いのか? 夜逃げしてホームレスにならなくてもいいのか?
いやだめだ。愛人なんてやれるわけがない。こいつの金で生活なんて絶対に嫌だ。
「…………」
うな重を押しのけ、隣の老夫婦の視線を気にしつつ、高屋の手を握り返した。
「……今日だけなら」
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