霧の町の探偵

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オルセンは霧の町だ。 昼下がりの住宅街に人の気配はない。まどろむように静かな白い世界の中を、フォグライトを点けて慎重に走る。 ベセル街までたどり着くころには霧はだいぶ薄くなり、周りの景色がはっきりしてきた。 ここら辺は商店街だけあって、歩行者や行き交う車の姿がちらほら見える。下町のわりに広い通りで、両側に古びたレンガの建物が並んでいる。ぼくにとっては、高級な店が並んでいるようなきらびやかな街よりも、ずっと居心地がいい。 ぼくの店は、通りの中ほどに位置するブロックの角にある。五年前、亡くなった祖父から受け継いだ古書店だ。 店の前に車をとめると、前に停まっていた引っ越し業者のトラックが、ちょうど入れ違いでエンジンをかけて走り去った。買取用の古いバンからおりると、秋の冷たい風が頬にふれた。 店が入っている一階部分の外壁は、ダークグリーンに塗ってある。ガラス窓をはめ込んだ木製ドアの上に、『アンドルデ古書店』と白い文字が並ぶ。祖父がこの場所を借り受けて店を開いたのは、四十年以上も昔のことだ。以来、この店はずっとここで町の本好きたちを迎え入れてきた。 電子書籍派が勢力を増してきているとはいえ、紙の本が好きという人も決して少なくはない。紙の手触りやページをめくる音なども読書の一部だったり、本を所有することに喜びをおぼえたりする人たちで、ぼくもその気持ちが分かる方だ。 ドアを押し開けると、ベルの音色が店内に響いた。足を踏み入れたとたん、紙の匂いに包まれる。古本屋独特のなつかしい匂い。 お客さんの姿はないようだ。最近ではネット販売の売り上げの方がずっと多く、夕方や休日をのぞいては、店まで足を運ぶ人はあまりいないのだ。 「おかえりなさい、ノア。どうでした、収穫は?」 ハルがカウンターから声をかける。 かしこそうな面立ちの、快活な青年だ。明るめのブラウンの髪は、少し癖があって柔らかそうに見える。オルセン大学に通う学生で、三か月くらい前から週二回ほど、うちでアルバイトをしている。まだ二十歳そこそこなのにそつがなく、安心して店番をまかせられる。 「ただいま。大漁だよ。運ぶの手伝ってもらえる?」 「もちろんですよ」 「そういえばさっきトラックが出てったけど、なんだろう」 「あなたが留守の間に、二階に誰か越してきたんですよ」 「そうか。やっと借り手がついたんだ」 二階には半年ほど前まで、リーマンさんという老会計士の事務所が入っていた。ぼくの祖父とは茶飲み友達だったらしく、祖父亡き後はぼくがそのお役目をひきついでいた。仕事は控え目に言って忙しいというわけではなかったらしく、よくうちの店に来ては、古本をめくったり、孫自慢をしたりして時間をつぶしていた。三回も四回も同じ話をくりかえす彼に、当時は辟易としていたものだが、今となっては懐かしい思い出だ。 彼の引退後、二階はずっと空き室になっていた。新しく入るのはどんな人だろう。うまくやれるといいんだけど。 店のドアを開いたまま固定し、外へ出る。バンのバックドアを開けると、ぎっしりつめこまれた本が視界をふさいだ。 「うわ……これ、ひとりでよく運びましたね」 「まあ、なんとかね。大変だったけど」 買い取りに出向いた家は、ブロストム地区の高級住宅街にある、白亜の豪邸だった。 胸元の大きく開いたワンピースに身を包んだ四十代くらいの女性が、玄関で出迎えてくれた。彼女はぼくにぴったりと身をよせて書斎へ案内しながら、年の離れたご主人が卒中で突然亡くなってどんなに寂しいかとか、ご主人の遺した大量の蔵書をどうしようか悩んでいたのでとても助かったとか、早口で話し続けていた。しどろもどろであいづちを返していたが、ああいうことは本当に苦手だ。 書斎の本棚はどれもぎっしり埋まっていて、貴重な古書や専門書から、二束三文のペーパーバックまで、全部で二千冊くらいあった。これだけ大量の買取は久しぶりだったので、少し体にこたえた。 「ぼくが運ぶんで、中で休んでていいですよ」 「大丈夫だって。二人でやった方が早い」 正直なところ腕があまり大丈夫ではないのだが、十も年下の学生バイトから、これくらいでへばるようなやつだと思われたくない。 「無理しないでくださいよ。あなたはあまり力があるようには見えませんからね」 「言ったな、ハル。こう見えて力には自信あるんだよ」 ハルのひやかすような笑顔の向こうで、ドアが開くのが見えた。店のドアではなく、となりの店との間にある、階段へ通じるドアだ。 思ったより高い位置に、ダークブロンドの頭が見えた。戸口から出てきた青年が、長い脚でこちらへ向かって歩いてくる。 なんとなく人を寄せ付けない雰囲気を身にまとっている。年齢はぼくと同じくらいだろうか。精悍な顔立ちに、青みがかったグレーの、鋭い瞳。 視線がぶつかった瞬間、お互いはっとしたように目を見開いた。 「失礼。ちょうど窓から見えたんで。よかったら手を貸そうか」 少しかすれた低い声。言葉の内容は親切だが、不愛想な言い方だった。表情もなく、まるで怒っているみたいに見える。 緊張して、自分がひどく無防備な存在のように感じられた。 「ありがとう、助かるよ。もしかして、二階に入った人?」 「ああ。ロニー・シオンだ」 ぼくの目を見もせずに差し出された手を握り返す。指の長い、あたたかい手だった。
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