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お帰りなさい高林君。そして、お帰りなさって高林君。
高林君は一向にトイレから戻って来ない。店員さんは時折トイレの方を見やっていた。あの酔いぶりではダウンしたか。だけど私も巻野も見には行けない。しょうがないよね、男子トイレには入れないもの。店員さんを呼び付けて確認させるのも申し訳ない。我々に出来るのはお酒を飲んで待つだけだ。
「先輩、今の内に帰ってもいいですよ。適当に誤魔化しておきますから」
巻野の提案に首を振る。
「流石に悪いよ。飲ませた以上、私にも責任があるし」
「でもほら、私にも紹介した責任がありますから」
「それはそう」
スマホを取り出しメッセージボックスを開く。見てみ、と巻野に渡した。ここ一か月、高林君から送り付けられた内容を読んだ巻野は徐々に顔を引き攣らせた。
「何ですかこれは」
無言で再び首を振る。巻野は今日も額を押さえ、その体制のまま読み上げた。
「僕達は運命の二人です。春山先輩と僕の出会いは奇跡であり、奇跡が起きたということは一蓮托生です」
「アホか」
「何ですか、このメッセージ。その前日は、春山先輩は春の山に吹き抜ける風です。風は心地好く僕の頬を撫で、こっちへおいでと誘いかけるのでした」
「誘ってないし風じゃないしそもそも私を食事に誘ったのはお前だろうがっ」
つい語気が荒くなる。巻野が画面から顔を上げて私を見た。無言で見詰める彼女に、知らないよ、と肩を竦める。どういう思考回路をしているのか私が訊きたいくらいだ。
「鬱陶しいから無視していたら、一人で勝手にエスカレートしていったの」
ジョッキを手に取り一息に煽る。レモンサワーを飲み干したのでお代わりを注文した。巻野もジャスミン杯を飲み干しお代わりを頼む。そして私にスマホを返した。黙って受け取る。二人揃って口を噤んだ。テーブルに重い空気が充満する。程なくしてお代わりのお酒が届いた。同時に口を付け、半分空ける。大きく息をついたその時、千鳥足で高林君が戻って来た。壁伝いにえっちらおっちら歩いている。どっかり席に着くと、失礼しました、とおしぼりで顔を拭った。大丈夫、と巻野が声を掛けた。大丈夫です、と返事をする。しかし息は荒く、脂汗をかき、目から光が無くなっていた。
「駄目でしょ」
「先輩っ。いやどう見ても駄目ですけど」
高林君は長く息を吐いた。そして、すみません、と頭を下げた。
「帰っていいですか」
「どんどん帰れ。私は引き留めない」
遠慮無く帰宅を勧める。この場に残った挙句、吐瀉物をぶちまけられるようなことがあっても困る。すみません、と言いつつ彼は財布を取り出そうとした。
「いらんいらん。後輩から金なんて取らないよ。帰りのタクシー代にでも当てな」
「いえ。家、近いんで。じゃ、また、連絡します」
「連絡もしなくていいよ」
それには答えず、高林君はショルダーバッグを提げて席を立った。先輩、と巻野が私を覗き込む。
「心配なので送ってきます」
「じゃあ私も行く」
「いえ、此処で待っていて下さい。彼の家、本当に近いので。送って、水とか渡したらすぐに戻って来ます」
まあ、確かにまだ注文して届いていないつまみもある。私も飲み足りない。わかった、と頷いた。
「待ってる。気を付けて行っておいで。出口を出たら早速一階へ降りる階段があるし」
「ありがとうございます。階段しかない二階の居酒屋も考えものですね。さあ、行くよ。高林君」
ふらつく高林君を巻野は甲斐甲斐しく支えた。ちょっと嫉妬する。昔は私が巻野に助けて貰ってばかりだったんだぞぅ。
一人になると途端に暇になった。何となくスマホを取り出す。レモンサワーを飲みながら、高林君から送られたメッセージを見返した。運命の二人ねぇ。君がどれだけ燃え上がっていようとも、私はマッチほどの火も点いていない。運命だと思っているのは君だけ。二人じゃない、一人だ。そして運命の出会いとは一人きりじゃあ成り立たない。二人とも相手を好きにならなきゃ。故に君と私は運命の二人じゃない。現状は恋心を拗らせた彼が一目惚れした私を相手にストーキングまがいの感情見せ付けプレイをやっているだけ。私が心惹かれるわけがない。おまけに、はしゃいだのか知らんが今日は散々飲み散らかして、牧野の手を煩わせながら帰っただけ。話した内容も、私がいかに素晴らしいか、自分がどれだけ惚れたか、今度二人で何をするか。一方的に捲し立てていた。会うのが二回目の相手にいくら褒められても、浅いな、としか思わない。高林君がどれだけ惚れていようが私は全く惚れていない。だから今度二人で何かをすることも無い。はっきりそう伝えて悉く主張を叩き落としたのだが、最後まで噛み合わなかった。恋は盲目、どころか耳も口も頭も機能していなかったぞ。
私のどこがそんなにいいのかね。きゅうりの漬物を一切れ食べながらぼんやりとそう思う。どうせだったら、彼じゃなくて。
「お待たせしました。イカの一夜干しになります」
不意に店員さんがお皿を差し出してきた。テーブルの空いている場所に置いてくれる。ありがとうございます、と顔を上げる。その店員さんは、さっき高林君をトイレまで連れて行ってくれた人だった。間近で見るとなかなかの爽やかイケメンだ。
「すみません、さっきはツレがご迷惑をおかけして」
何で私があいつのことで頭を下げなきゃならんのじゃ。真っ当な不満を覚えつつ、イケメンに謝る。
「お気になさらないで下さい。仕事ですし、慣れていますから」
「仕事で慣れていても嫌でしょ。私は嫌」
率直な感想が零れる。店員さんは苦笑いして、ごゆっくり、と厨房へ帰った。そりゃそうか。そうなんですよ、本当は嫌なんです、なんて言えるわけないもんな。
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