泡沫幻影

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 懐かしい雰囲気の漂う駄菓子屋の解体工事現場。 想い入れなんてないはずなのに、前を通るとどこか胸を締め付けられる感覚を覚えた。断片的な記憶しか持ち得ない僕にとって『懐かしい』なんて言葉は無縁のもの。  風が吹く、夏の匂いがする。 冷たく、僕の鬱々さを切り裂くような空気。 振り向くと、八年前闘病の末この世を去った、僕の初恋の相手がいた。 「夏帆(かほ)……?」  微かに透けている彼女の容姿は幼いままだった。 「あっ覚えてくれてる!海晴(かいせい)、久しぶりだね」  不可解な状況に理解が追いつかない。 目の前にいる彼女は確かにあの瞬間……。 「海晴は元気だった?私がいなくなってから寂しかったんじゃないの?」    そう揶揄いながら、無垢な瞳で僕を見つめる。 当時と変わらない真っ直ぐに澄んだ眼差し。程よく響く可憐な声。動くたびに揺れる絹のような髪。ドッキリでも、なりすましでもない。僕の目の前に立っている少女は、間違いなく夏帆だ。 「……話したいことは溢れるほどあるんだけどさ」 「うん」 「どうして……夏帆がここにいるの?」  数秒の沈黙後、彼女は口を開く。 「野暮なことを訊くようになったねー、焦らないでちょっとゆっくり話そっか」  数ミリ浮いている彼女の足が無邪気に動く。目の前で微笑む少女が彼女だという確信の代わりに、目を瞑っていたい現実も生々しく感じてしまう。 「海晴、ここの道……覚えてる?」 「覚えてるよ、昔はよくここでかくれんぼとかしてたよね」  当時両手を広げても表現しきれなかった河川敷の草原が、今は少し窮屈に感じた。 八年という歳月は、僕が感じていたよりも遥かに早く過ぎゆくものだった。彼女との現実から目を背けている間に、景色は変わり、周りは大人になっていった。 背丈だけがそれらしくなり、心から別れきれていない僕には未熟さだけが残っている。 「夏帆、ここの道を真っ直ぐ行くとどこに着くと思う?」 「忘れられるわけないでしょ?」  自信に満ちた声色に、寂しげの混じる表情で僕へ答えを告げる。 「私が生まれて、最期に息をした場所でしょ?」  そしてあの場所は 「僕達が出逢った場所だよ」 「海晴からその言葉が聴けてよかった、私にとっては唯一無二の特別な場所だからね」  忘れたフリをしていた彼女との過去を、その瞳で思い出す。 ー*ー*ー*ー*ー 「六○三号室はこちらです、後ほどお荷物お持ちしますので……」  看護師に促されるまま、一週間ほどお世話になる病室に入る。海のみえる静かで清潔感のある部屋の一角、四人部屋の一枠が既に埋まっていた。 「今日からここで暮らすの?」 「えっ……?」  同い年くらいで僕より少し背の高い少女、しゃがみ込み下から覗き込むように僕に話しかける。 「私は夏帆!ずっとここにいるんだ」 「……僕は海晴、一週間くらいここで暮らすんだ」  辿々しい返答に彼女は『緊張しなくていいんだよ』と頭を撫でる。 その手はやけに冷たく、触れてわかるほど震えていた。一週間といっても検査やその他都合の関係で病室に入れるのは二日間程度、彼女と話せるのはその二日間と夜の時間だけ。 「ねぇ夏帆ちゃん」 「夏帆でいいよ、ちゃん付け慣れないし」 「わかった、夏帆は検査とかないの?」 「私はずっとここにいるからよくあるよ、海晴は明日から三日間だっけ?」 「そうなんだよね」 「別の部屋、まだ行くの怖いよね」 「まぁ……ちょっと怖いかな」  僕の手を握りながら柔らかく語る彼女との時間が僕の恐怖心を溶かしていった。 友達もいない僕が初めて誰かに心を開き、身を委ねた。少し眠った後に早すぎる朝を迎え、検査の準備をする。   「夏帆、いってくるね」 ー*ー*ー*ー*ー 「その時……実は私寝たふりしてたんだよね」 「え!?そうだったの?」 「強張りながら覚悟を決めた快晴のこと、心だけでもちゃんと見送りたくてね」  彼女の幼さとは結びつかないほど深く、出来すぎた優しさに驚きが隠せない。 僕の小さな勇気と、彼女の暖かさが八年の時を経て重なった。 そうだ、彼女は演技が得意だった。 ー*ー*ー*ー*ー 「海晴、三日間お疲れ様」  全ての検査を終え入室した病室で出迎えてくれたのは、彼女だった。 「ありがとう夏帆」  手招きしながら『話そうよ』と無邪気に口角をあげる。 二人だけの病室、きっと僕が来るまで彼女はずっとここでひとりだった。 「夏帆はさ」 「うん」 「どうしてここでの暮らしが長いの?」  難しそうに眉間に皺をよせ、絵に描いたような考える仕草をする。時々右上を見ながら必死に言葉を探す。 「生まれた時からここが良くないの」  彼女が喉元を指差した。 「喉?」 「難しい言葉で言うと『呼吸器』が悪いんだよね、息をするところ」  その告白が、時々苦しそうに咳き込む彼女の姿と重なった。 「そうなんだ」 「そう、何回か手術したんだけど……なかなか思い通りにはならなくてね」  子供ながらにわかった、彼女の背負う病はきっと彼女の身体から消えることはないのだと。 「海晴はどうしてここへ来たの?」 「僕は小学校の入学前検診でたくさんバツがついたから……」 「小学生かぁ私たち同い年だもんね、ランドセル何色?」 「僕は藍色、夏帆は?」 「んー内緒!」  今ならわかる、そもそも彼女にランドセルなんて物は存在しない。 ー*ー*ー*ー*ー 「話せば話すだけ想い出って溢れてくるね」 「そうだね……あの一週間が終わって僕は退院したけど結局毎日病院に会いにいってたんだよね」 「そうそう!本当に毎日窓の外を覗いて海晴が来るのを待ってたなぁ」  懐かしそうに語る彼女の横顔が寂しい、これが『でも今はお互い元気だよね』という絵本のような終わり方ができたなら、寂しさを背負う理由がなくなったはずなのに。 「でもよかった……海晴は今も元気に暮らしてて、私は安心した」 「それは本当……?」 「大切な人が元気に生きてることを恨む人がどこにいるの?」  揶揄うように、逃げるように笑う彼女の返答に残る違和感。 「僕、恨むなんて言ってないよね?」 「……え?」 「夏帆、僕はあの時より少しは賢くなったんだ」 「うん」 「相変わらず友達はいないけど、本当をみつけることはできるようになったよ」 「どういう意味……?」 「夏帆がやさしさでついた嘘の本当の答えを、僕は聴きたい」  彼女が足を止める、一瞬俯き強く僕の眼をみる。 「嬉しかったよ、海晴が普通の暮らしに戻れて嬉しかったことに嘘はない」 「それは、本当にありがとう」 「でも同じくらい悔しかった、私だけが取り残されたみたいで怖くて仕方なかった」  彼女の震えた声を、今初めて耳にした。 「私の病室に駆けてくる海晴の真似をして、一度だけ誰もいない廊下を走ったことがあるの」 「うん」 「走るどころか、真っ直ぐ歩くことすら出来なかった」 「……」 「病状が悪化していけばいくほど薬は強くなる、副作用も当たり前のように辛くなる」  僕の知らない苦しみが彼女を蝕んでいた。 「海晴が毎日背負っていたランドセルを私は背負うことが出来ない」 「それは……」 「筋力が低下して、日常の基本動作がやっとの身体になっていたから」  僕が最後にお見舞いに行った小学三年生の夏、思い返せば彼女の腕には無数の管が繋がれていて行動範囲は病室に留まっていた。 「じゃあ僕が最後に会った時から先は……」 「もう手術すらできる身体じゃなかった、そんな体力すらないまでに衰退した身体をどう人間のように保つか、そのための治療が始まった」  僕の想像を超える彼女の生きた時間に言葉が出ない。 「海晴が最期に私の顔を見た日」 「病室で話をした夏の日?」 「違う、私の葬式」 「あっ……」 「あの日からの海晴は私の知ってる海晴じゃなかった」 「それは……ごめん」  ずっと帰りを待ち続けた人との永遠の別れを受け入れなければいけない苦痛を、僕はずっと呑み込めずに息をしてきた。 彼女はどこかにいると、あの儀式は大人の子供騙しで、演劇。嘘つきな彼女が最期に創り上げた僕への仕掛けだと必死に言い聞かせてきた。 「信じたくなかったんだよね、私がこの世界にいないってこと」 「えっ……」  確かに彼女は今、僕を抱きしめている。 ただ感触はなく、匂いも、重さも温度もない。感情経由の暖かさと、記憶経由に柔らかさが残酷なほど僕に纏わりつく。 「海晴……私のこと、忘れないでいてくれてありがとう」  彼女がこの世を去ってから、僕は僕自身が生きているということすら忘れていたのかもしれない。 新しい何かに出逢うことよりも、それらを失うことを恐れた。彼女と紡げなかった未来の代わりに創るべきだったものも感傷に浸っては諦めて棄てた。 「僕に大切なことを思い出させてくれてありがとう」  触れたい、触れられないその頬を撫でながら僕は彼女の無機質な温度を抱きしめた。 「気味悪がらないで受け入れてくれてありがとう」  少し離れ、僕の顔を見た後に彼女は細く呟いた。 残りどれくらいの時間、彼女といられるのか僕にはわからないけれど、その瞬間を噛み砕きながら永遠に抱きしめていたい。 「さっき私に『どうしてここにいるの?』って訊いたけど、なんとなく理由わかった?」  うまく言葉には出来ないけれど、なんとなく彼女がここに来た理由がわかった気がする。 ふたりの過去の隙間を埋めて、生き続ける僕とそれを見守り続けてくれるであろう彼女の未来を繋ぐ。そのために僕が失った大切なものを教えに、彼女はここに来た。 「僕に教えに来てくれたんだよね、忘れていた大切なこと」 「半分正解、でも半分誤解かな」 「誤解……?」 「海晴が忘れてたんじゃなくて、私が天国にお持ち帰りしちゃったものを返しに来たんだ」 「それって……」 「海晴が新しい何かをみようとする気持ちも、生き生きとした瞳も私が手放したくなくて持って帰っちゃたから」  戯けたように、寂しげに笑う彼女を目にした瞬間、僕はもう一度彼女に恋をした。 「それをちゃんと返せたらきっと、生きている海晴ともう未来のない私を比べて恨んじゃうこともなくなると思うから」  再び無邪気に駆け出した彼女の背を追う。 陽に照らされたながら笑う。生きてる間に味わえなかった青春が、きっと今彼女の中に芽生えている。 「ねぇ海晴」 「ん?」 「さっきの駄菓子屋さんのこと覚えてない?」 「駄菓子屋……ってさっき解体されてた?」 「そうそう!流石に覚えてないか」  数秒考えた後に、答えは出てこなかった。 もしそこにも忘れている欠片があるとするのなら、僕はそれを残さずに掬いたい。 「あの駄菓子屋さん、私のおばあちゃんが営んでたお店なんだけどね」 「あっ……」  繋がった、あの妙な懐かしさと胸の窮屈さの正体は美しすぎる記憶だった。 「サイダー……?」 「どうして……」 「どんどん生活に制限のかかる夏帆が唯一好きに飲めたものだった……よね」  僕がお見舞いに行く度、両手に抱え持っていった。 バレないように栓を開け、吹き出す泡を掬いながら笑い合った。僕らの幼い青春の想い出。 「私はあの時間が宝物だったなぁ」 「僕も……本当に思い出せてよかった」  当時の話に花を咲かせながら、当時一度だけ抜け出して遊んだ海辺のベンチに向かう。 彼女が取り出した二本のサイダーを陽にすかしながら、語りきれない想い出を並べていく。 「私の思い出の全瞬間に海晴がいた気がする」 「……?」 「ずっと病室にいて友達も出来なかったけど、海晴が外の世界を教えてくれた」 「僕が……」 「だから最期、不思議と思い残したり後悔したりすることはなかったんだよね」  真剣な眼差しでそう呟き、少しして恥ずかしそうに赤面する。 その気持ちを流し込むようにサイダーを口にした。 「おばあちゃんが亡くなる前……今日から丁度二ヶ月前くらいかな、お墓参りに来てくれた時に言い残していったんだよね」 「何て……?」 「この世界には『運命の人』が必ず存在するんだ……って」 「運命の人……」 「海晴は運命の人ってどんな人のことを言うと思う?」  『運命』という言葉を信じたことはないけれど、信じてみたいと思ったことは何度もある。 ずっと一緒にいられて、どこか似ている。切っても切れないそんな存在がきっと『運命の人』なのだと思う。 「離れずにずっと一緒にいられる人……かな」 「離れずにずっと……かぁ」  住んでいる世界から違う彼女にこの言葉を向けることは皮肉だろうか、発した瞬間に罪悪感に駆られた。 「夏帆はどんな人だと思うの?」 「私は……離れても一緒にいられる人」 「……」 「今から話すのはおばあちゃんの受け売りなんだけどね」 「うん」 「運命の人とは一度離れるんだって」 「離れる……?」  予想もしていなかった言葉に真相が気になって仕方がない。 「強制的な別れ、運命的な距離を経ても繋がっていられるものなんだって」  その言葉がどこか今の僕たちを指しているようで、照れ臭くなる。 名前すらないこの関係に『運命』という特別がつくことは現実味がないけれど、どこか納得してしまうような自分がいる。 「……僕達みたいだね」 「えっ……?」 「あっいや……やっぱり今の忘れて」  この言葉は、感覚は、僕の中にしまっておこう。 発してしまったのは夏のせい、そしてこのサイダーのせい。 「ねぇ海晴」 「ん?」 「私達『運命』ってやつなのかもね」 「……!?」 「忘れたから、私が思ったこと嘘なく伝えてあげる」  幼いままの容姿をした君も、きっと僕と同じように歳をとり、大人になっていく。 そして僕より苦悩を味わった分、魅力深く、笑顔の似合う女性になっていく。 「海晴、今日誕生日だよね」 「覚えててくれたの……?」 「もちろん」  十八歳、今日僕は子供を卒業する。 未熟すぎる、知っている大人とはかけ離れた僕が、君を置いて大人になる。 「海晴はもう大人になっちゃうんだね」 「大丈夫、夏帆の心の中で僕は僕だから」 「海晴……」  彼女が生きていたら、僕は今ちゃんと大人になれていただろうか。 怯えずに世界をみて、君の手を引いて新しい何かをみつけられるような頼もしい人間になれているのだろうか。 「大人になる前に海晴といくつか約束したいことがあるんだけど、いいかな」 「もちろん、聴かせて」  迷うこともなく真っ直ぐ、人差し指を立てる。 「ひとつ、自分に嘘をつかないこと」 「うん」 「ふたつ、大切にしたいと思った人を心から大切にすること」 「うん」 「みっつ、私との過去に囚われないこと」  彼女との約束は、もうすぐ彼女が僕のそばから姿を消すことを暗示させるような言葉の連続だった。 受け取らなければいけない言葉をうまく呑み込めない、彼女がいない世界を生きると言う事実を僕は認めたくなかった。 「最後に……」  立てていた指を戻し俯く、時が止まったような感覚に襲われ気づくと彼女は僕の胸の中にいた。 「私のことを忘れないでいてほしい……」  確かに感じたこの感覚が、本当は実在しないということはわかりきっている。 透明な、重さもない彼女を抱きしめて僕は彼女に誓う。 「初めて好きになった人のことを忘れるわけがないよ」  安心したような顔をして、頬には滴が伝っていた。 『ありがとう』と震えた声で囁き、彼女は僕に目を瞑るよう指示する。 『海晴、愛してるよ』  風が吹く、夏の匂いがする。 冷たく、それでも柔らかく僕と彼女切り裂き再会を誓わせる空気。 目を開けると空になったラムネ瓶が転がっていた。    
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