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クレールの着いたテーブルの上には、焼きたてのパンと新鮮なチーズ、山羊の乳。
玉ねぎとベーコン入りのスープにジャガイモの蒸かしたものが用意されていた。
既に朝食を済ませていたシーンは、ヤギの乳入の紅茶を貰う。
簡素な朝食だったが、ハイトにはもったいないくらいの食事だったらしい。
喜んで口にしていたが、途中からその手が止まる。訝しんだシーンは声をかけた。
「どうした?」
「その、妹たちに悪いなって…。俺だけこんな食事…」
「家族は何人なんだ?」
「妹と祖父です…。妹はほとんど家で寝ていて、祖父は働きに出ていますが、足腰も弱ってきていて…。今は休んでいます。俺だけの稼ぎじゃ、こんな食事は…」
とてもできないのだろう。するとクレールはポンとハイトの背を叩き。
「あとで少しだが二人の分も土産に持たせてやる。今は何も考えずに食え」
「…はい!」
ハイトの瞳が喜びに輝いた。その様子にシーンは思いを巡らす。
何か職はなかっただろうか。
安定した職さえあれば、もう少し生活が楽になるはずだ。
日々、苦労しているのだろう。こんな簡素な食事でもハイトにとっては豪華なのだ。
屋敷で最上の料理を前にしても、まずいの嫌いだのと言って口にしない領主の息子、ヴァイスとは大違いだった。
ろくに苦労もしていない。というか、甘やかされて育った典型的な例だ。幼い頃から見てきたシーンでさえ、このところ手に余る。
それに──。
ヴァイスとのやり取りを思い出しかけた所で、クレールに声をかけられた。
「おまえんとこ、人では足りているのか?」
「私もそれを考えていた所だ。今のところは足りてはいるが、何かないかあたってみよう。ハイトは今何の仕事を?」
シーンは口にしていた紅茶を一旦置くと、ハイトを振り返った。シーンの向かいに座ったハイトは少し視線を落とし。
「…いろいろです。靴磨きや、掃除、ごみの回収…。頼まれればなんでも。ただ──」
「ただ?」
「俺。生まれて間もなく右足を骨折して…。上手く治らなくて、それで走ることはほとんどできなくて…」
ああ。だからあの時、不自然によろめいたのか。
シーンは納得する。
「そうか。色々聞いて済まなかったな? うちの屋敷に仕事の空きがないか聞いてみよう。それよりもう少しいい仕事を見つけることができるかもしれない」
「ありがとうございます…。本当に…」
ハイトの頬は高揚し赤く染まる。
「これも何かの縁だ。使えるものは使えばいい。君の生活が少しでも楽になるならこんな嬉しいことはない」
「…サイラスさん」
ブルーグレーの目の端が潤んでいるのが目に入った。自らもそれに気付き、慌てて手の甲で拭うと、
「ありがとう、ございます…!」
慌てて礼を口にした。
好ましい人物だと思う。謙虚で素直だ。こんな子なら、仕えがいがあるだろうに。苦労している分、人の心の痛みも分かるはず。
何とかして、いい仕事を探し出そうと、シーンは心に誓った。
そんな二人のやりとりを見ていたクレールは。
「シーン。お前、相当ハイトが気に入ったようだな?」
そう言ってにやりと笑う。
「え? ええ?」
ハイトが驚いてパンを取り落とした。皿の上にぽとりと欠片が落ちる。シーンはからかうクレールを睨みつつ。
「ハイトはいい子だ。見ればすぐわかる。気に入って当然だろう?」
「お前さんは、日々、お坊ちゃんの世話に手を焼いているからな? そりゃあ、素直な子を見れば気に入りもするだろうな?」
「お坊ちゃん?」
ハイトは首をかしげて問うようにこちらを見上げてきた。シーンは口元に苦笑を浮かべつつ。
「俺はレヴォルト様のお屋敷で子息の従者をしているんだ。今日は子息のヴァイス様が元御学友の屋敷に遊びに行っていてね。世話はあちらの従者が行うから、私は必要ない。久しぶりの休暇なんだ」
「大事な休暇だったんですね…。すみません。俺が目の前で倒れたばっかりに…」
パンから一旦手を離すと、深々とため息をついて俯いた。しかし、ハイトは一つも悪くないのだ。助けたのはこちらの勝手で。
「気にしなくていい。君に頼まれたからではなく、私がしたかったからしただけだ。とてもいい休日だよ」
「…俺。なにもお返しができない…」
シーンの笑みを見つめた後、視線を再び手元へと落とす。あかぎれた指先は所々血が滲んでいた。
「返してもらおうとは思っていないが…。なら、ハイトが元気にしていて欲しい。今はこの食事をたくさん食べて、な?」
「…はい」
顔を上げ、シーンを見つめてくる。ブルーグレーの瞳には喜びが浮かんでいた。そこへ再びクレールが。
「おいおい。二人で見つめあうのは後にしろよ? そんな姿お前のお坊ちゃんが見たら逆上するぞ?」
「逆上? それって…」
「さっきから、クレールは余計な一言が多いぞ。確かにヴァイス様は執着が強い。だが、成長し誰かを好きになれば変るだろう。…一時のものだ」
すると、横からクレールが、
「こいつのご主人様はシーンが大好きでな? 日々迫ってこいつを困らせてる。嫉妬深いからちょっとでもシーンがよそ見すれば癇癪を起すしな。たいした坊ちゃんなんだよ。なあ? シーン。あれじゃあ、先が思いやられるな? 今の領主は善良だし、誠実だ。だが、奴の代になればどうなるか…。ため息もんだぜ」
「…大丈夫だ。私がそうさせない」
「お前の親父さんは今の領主の従者だったんだろ? 今は執事だが。親父さんと同じように、領主も立派に育ててくれよ?」
「分かっている…」
ハイトはただ、ぽかんと口を開けて話を聞いていたが。
「…サイラスさんは、いつかお屋敷の執事になるんですか?」
シーンはため息をつきながら、肩をすくめて見せる。
「どうだろう。私はそうなれたいいと思っているし、それは幼い頃からの夢でもあった。今の領主はそれは素晴らしいお人だからな。だが──」
「それも今のご令息をみて揺らいでる、か?」
クレールがニヤニヤ笑いを浮かべ問い返す。シーンはまた睨むと。
「まだ先は分からない。それに揺らいでなどいないさ。…ただ、手に余っているのは事実だが…。しかし、せっかくの休日だ。もう仕事の話は止めよう。さあ、ハイト。あるものを全て食べてしまえ。クレールなんて、山羊の乳一杯で十分だ」
がっちりとした体格は十分栄養が足りている事を示している。
「うるせぇ。俺だって食わなきゃやっていられねぇんだ」
「でも、先生の身体の半分はお酒でできていますものね? 確かに食事は必要ないのかもしれません」
給仕に徹していたロシュが横から口を挟む。クレールはかなりの酒豪で、ロシュはいつも心配しているのだ。ハイトにはスープのお代わりをいるか確認していた。
「…くっ。ロシュもいうようになりやがって」
シーンは苦笑すると。
「ロシュやカリダに心配をかけさせるなよ? お前になにかあれば優秀な助手や看護師を路頭に迷わせることになる」
「わかってるって。ったく、どうして俺の話になる? ハイト、こいつはかなり小うるさい奴だ。そのうち出会ったのを後悔することになるぞ?」
「クレール…」
まだ言うのかと睨めば。恐縮した様子のハイトが。
「そんなこと、ありません…。俺、サイラスさんに出会えて良かったです。…普通に暮らしていたら会うこともなかったですから…。とても親切で──素敵な人です…」
「……」
シーンは思わずハイトを見返した。流石のシーンも口を開けてしまう。
面と向かって好意を伝えられたのは初めてかもしれない。しかし、嫌な気はしなかった。素直に嬉しいと思う。
「ありがとう。ハイト。君に言われると私も嬉しいな」
嘘や偽り、お世辞ではないとわかるからだ。ハイトの頬が赤く染まっているのが何よりの証拠で。
「おいおい。だからそれはよそでやってくれ…」
クレールが額に手を当てて頭を振った。
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