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「辞めるって、…どういうことだ？」
顔を上げたヴァイスはそのまま固まる。
「言葉の通りです。後任の目星が付き次第、辞めさせていただきます──」
ヴァイスは眉間にしわを寄せ、理解できないと言った顔をする。
「僕が継がないと決まった途端、それか。僕を捨てるつもり？ 許さない、そんなの──」
「いえ。クラレンス様の件が持ち上がる前に、辞するつもりでおりました。今回の件は偶然です」
電報の報告後、シーンは自分の意思を伝えた。もとより辞めるつもりだったが、今告げねば、当分その機会を得られないだろう。
それに、クラレンスが生きていると分かった今、クライヴの気持ちは高揚している。自分の申し出を受け入れる可能性は十分あった。
突然、訪れた好機に乗じない手はない。
辞意の意思を聞いたクライヴは暫く黙っていたが、最後にわかったとだけ口にし。
「──確かに、クラレンスが生きていると分かった今、ヴァイスを抑える必要はない…。だが、今少し時間をくれ。それまでは今まで通りに。お前は良くやってくれた。…悪い結果にはならないだろう」
「ありがとうございます」
シーンはそう答え、父と共にクライヴの書斎を後にしたのだった。
「急だな？」
廊下に出た所で父オスカーが声をかけてきた。クラレンスの吉報により、暇がなくオスカーには一言も断りを入れていない。
「クラレンス様の件が無くとも、今日、報告するつもりでした」
「お屋敷の未来を捨ててもか？ 運良くクラレンス樣が健在と分かったからいいものの…。それに、執事になるのが、昔からお前の夢だっただろう？」
オスカーの問いはもっともだ。シーンは苦い笑みを浮かべると。
「…考えが、変わったのです。私はやはり、自分の生き方を優先したい。私一人なら、きっと犠牲になるのもやむを得ないと思ったでしょう。ですが、一人の人間に出会って、彼と共に生きたいと思ったのです」
「…彼？」
「ハイトです。父さんも顔なら知っているでしょう。彼が私の生き方を示してくれました。私は彼と生きて行きます」
「シーン…」
オスカーは驚きの表情を隠さない。しかし、たとえ父の同意は得られずとも、自分の思いを突き通すつもりでいた。
「もう一つ、お願いしたい件があります」
それは、退職金を辞退する代わりに、ハイトを連れて行くこと。
もともと自分が引き入れたのだ。代わりの者もいると伝えれば、オスカーは何も言わなかった。
キエトには既に伝えてある。半年にも満たない付き合いにさせてしまい申し訳なかったのだが、ここへ置いて行けば、ヴァイスからどんな仕打ちを受けるかわからない。
それを分かっているキエトはそうかと頷き、少し寂しくなるがと、呟いた後、大きく頷いて。
「俺じゃあ、ハイトを守り切れんしな。新しい助っ人が来るならそいつを頼ろう。こっちのことは気にせんでいい」
そう言ってくれた。
この時はまだクラレンスが戻るという話の前。先の見えない未来に、キエトもさぞ気落ちした事だろうと思う。
シーンはヴァイスに向き直ると。
「私は長年、ここで勤めさせていただきました。幼い頃から、父の背を見て育ちました。いつか父のような立派な執事になりたいと──。ですが、私は力の限界を感じました。ここでこのまま働き続ける事に疑問が生じたのです。執事になることだけが私の人生なのか。お屋敷の存続の為、自分を犠牲にすることが正しいことなのか…。自問自答した結果、私は別の道を行く決断をしました」
「お前…」
「ヴァイス様のお世話を最後まで務めることが出来ず申し訳なく思います。特別に心をかけていただいた事は、ありがたかったと…。しかし、私には過ぎた思いの様でした。これを機にヴァイス様も心を切り替え、新たな道をお歩みください。私が辞することが契機になればこんな嬉しいことはございません」
「──行かすと思うか？」
ヴァイスは唇を噛みしめる。
「…人の心を無理に変えることはできません。まず、ご自身から変わらねば。ヴァイス様が私に執心されるのは決していいことではありません。それは単なる独占欲、自身の為のエゴです。全て自分中心に考えていては、何事もうまく回りません。必ずどこかで壁に当たる…。私とのことを糧に、どうか新たな人生をお進みください」
そう言い終えて、まっすぐヴァイスを見つめる。
そこにあるのは幼い頃、屈託ない笑顔を見せた幼子ではなく、嫉妬に駆られ、理性を失いつつある主の顔だった。
可哀そうな人だ。
自分がどんなに心を砕いても、変わることはなかった。変わるきっかけを与える事さえできなかったのだ。自身の無力さを痛感するが、まだ出来ることはある。
最後にできること。それはヴァイスの元を離れること。ハイトを守る為の決断でもあったが、それが契機となって、自身の行動を改めるきっかけになれば、そう思ったのだ。
「お前を縛り付けてでも、ここから出しはしない！」
ヴァイスは激昂するが。
「人の気持ちを無視してはいけません。そんな行動は、本当の幸せを貴方にもたらしはしません。最後に貴方に教えられることは、私が離れることでご自身の身を振り返っていただくこと。それだけです」
「──っ」
「クライヴ様の正式な許可を得るまではここに勤めさせていただきます。お側にも。──今まで本当にありがとうございました」
「シーン！ 行くなっ！ 行かないで──！」
部屋を退出しようとすれば、駈け寄ったヴァイスが背に抱き着いてくる。
「シーンが…好きなんだ…」
「ヴァイス様…」
切ない声に胸は痛んだが、申し訳ないと言う思い以外は湧かなかった。腰に巻き付いた腕をそっと外し、正面に向き合うと。
「私を本当の意味で好きであるなら、自由にさせてください。私の幸せは──もう、ここにはないのです。きちんと自身を顧みて反省いただければ、貴方にはきっと次の幸せが待っています。私が言えるのはそれだけです…。どうか私の事はお忘れください」
「シーン。ここを辞めてどうする？ あいつと何処かで暮らすつもりか？」
「お答え出来ません」
シーンはハイトに関わる事を、ヴァイスに漏らすつもりはなかった。ハイトを持ち出す事で、ヴァイスをこれ以上刺激したくはない。それに、ハイトを守る為でもある。
ヴァイスは意地の悪い笑みを浮かべると。
「おまえ、…奴の事を知らないだろう？」
「は？」
意味を掴みかねて、流石のシーンも首を傾げた、
「今日、伯父も来る。そこで伯父からお前にいい話しがあるだろう…」
「私に？」
「そうだ。夕食後、客間へ来い」
「分かりました…」
「もう下がれ。…一人になりたい」
指示を受け、シーンはヴァイスの部屋を後にする。
伯父、リオネルといったい自分がどうかかわりがあるのか、シーンには掴めない。
ただ、暗いヴァイスの目の色だけが気になった。
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