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その日の夜、リオネルが屋敷を訪れた。
表向きは近くを通りかかったからと言う理由で、長男のクラレンスに挨拶をし、兄クライヴに煙たがられながらも晩餐を共にして。
しかし、実際の用向きはハイトについてだった。
晩餐が終わり各自が自室へ戻る頃を見計り、シーンはリオネルに呼び出される。
使用人仲間達は、いよいよシーンに手を出すのではと気が気ではなかったようだが、その心配はまずなかった。嗜好はどうあれ、リオネルは信用していい人物だ。
「使用人の私を見る目が厳しかったよ。どうやら君を狙う不届き者と思われているらしい。皆の期待に応えて、いっそ、そうしても良かったが…。君との逢引きならこれほど楽しいことはなかったのにな?」
「リオネル様…。それで、ハイトは?」
リオネルは肩をすくめて見せると。
「私の戯言は無視か…。まあいい。なにより大切なのはハイトだからね。──今晩、迎えに行こうか」
「では、見つかったのですか!?」
「取り引き先の店は直に分かったよ。行方不明になって三日目で見つかるとは運がいい。まだ手は出されていないようだ。…ただ、逃げ出そうと試みたらしく、部屋に閉じ込めてあると言われたよ。初めから大人しければすぐに客を取らされていただろう…。可愛いハイトがそんな目に遭わなくて良かった。──とは、私がいうべきではないかな?」
「いえ…。手を尽くしていただき、ありがとうございます。過去の事は水に流します。それに、最後まで手は出していないとおっしゃられましたから…」
「あの時のハイトは、本当にかわいかった…。君とハイトはいい仲なのだろう? この前の二人を見て気付いたよ。だから、ヴァイスにも引けと言ったのに…。本当にバカな子だ」
リオネルはため息を漏らした後。
「さて、ここで駄弁っている時間がもったいないね。シーンも早く会いたいだろうし。行こうか」
「はい」
すでに車の用意はあった。リオネルはそのつもりで自身の車を用意してあったのだ。運転手は既に行き先を告げられているらしく、二人が乗り込むとすぐに発車させた。
いくら身内の後始末とは言え、ここまでしてくれることを不思議にも思った。
貴族は身分で人を判断する。使用人の頼みに、どうしてここまで応えるのか。
しかし、リオネルは車の中でそれについて話してくれた。
「私は昔から、身内の中でも浮いた存在でね。それは社交界に出ても同じ。私自身も馴染めずにいたし、馴染もうとは思わなかった…。半分はヴァイスの言う、『下賤な血』が混じっているからかな?」
自虐的にそう口にするが、それほど気にしている風もない。
「そんな事は…」
「実際、母は娼婦だった…。息子が侯爵家に迎えられただけ、報われたとも言えるのか…。まあ、寂しい人生さ」
「……」
肩をすくめて見せる。シーンは何も口にはしなかったが、そこからリオネルの心の内が、垣間見えた気がした。
「そんな出自が影響してか、私は昔から身分や裕福さより、気に入ったものを大切にしたい思いが強くてね。それが幾ら他人から見て理解できないものであっても、私には美しく輝いて見える、それが大切なんだよ。私は君とハイトを気に入った…。ヴァイスの件もあるが、助ける理由はそんな所だ」
そう口にすると優雅な仕草で顎に手をあて、目を細めて見せた。
このリオネルの印象が初めからはだいぶ変わっていた。ただの使用人として仕えていれば、間違った目でこの男を見ていただろう。
車は細い路地を入っていった所で停車した。
目の前には、重厚な石造りの建物がある。窓はろくになく、店と言うよりどちらかと言えば監獄の様にも見えた。
「さて、着いたようだ。あまり風紀の良いところではないが、君。腕に覚えは?」
「自分の身を守るのに必要な程度ですが、それなりに…。リオネル様はここでお待ちになられては?」
「そうしてもいいが、私が出ていった方が話が早い。主人も顔を知っているからね? それに、私も伊達にこの世界に身を浸してはいない。自分の身くらいは守れるさ」
「それは助かります…。では」
リオネルは運転手にそこで待つように告げると、石造りの壁の店へ重い扉を開け入って行った。
シーンはごく普通のスーツの上にコートをを身につけているが、リオネルはマントで身体をすっぽりと隠し、フードをかぶっている。黒地の質のいいビロードが店の怪しげな光に艶めいて見えた。
これならひと目にもつかないだろう。あれはレヴォルト家の──と、好機の目に晒される事もない。当の本人は気にもしないだろうが。
ドアを開けるとすぐに主人が顔を見せた。
小太りで頭のてっぺんが禿げ上がった男だった。目はずる賢そうに光っている。
リオネルの用向きは既に承知していたらしく、恭しく頭を垂れつつ、店内の奥へと案内する。
店は一見するとバーの様だが、店の奥、分厚いカーテンを捲ったその先は、淫靡な空気が漂っていた。
ここは相手を選ぶ為の部屋らしい。通路の両側にあるドアには小窓が空いていて、中を覗ける様になっている。上階は客室になっているようだった。
「お探しの者は地下になります…。如何せん、大人しくならなかったので、仕方なく閉じ込めました。少々手荒なマネもしましたが…。しかし、旦那様位のお方でしたら、もっといい子が沢山おりますのに──」
「彼をずっと探していたんだよ。手違いがあって手元を離れてしまったが。言い値の倍は払おう」
「ほ、本当ですか? あーいや、しかし、だいぶ弱っておりまして。その、大人しくなるまで食事もろくに与えておりませんで…」
「生きてはいるのだろう?」
「はあ…」
主人の態度は要領を得ない。リオネルはそれまで柔和な態度を示していたのを急変させ、鋭い視線を向けると。
「…もし、彼に何かあれば相応の罰を受けて貰う。金の話しも無しだ。代わりにこの界隈では生きられないと思いたまえ」
「はっ?! えぇ、でも、しかし──」
「いくら買ったとは言え、人として相応の扱いをするべきだと身をもって知るといい」
「──っ…」
主人はすっかり委縮し表情を固まらせ肩を落とした。
しおしおと地下への階段を降りた先、いくつかある木戸の、一番奥の扉の前に立ちカギを開ける。
その扉には上部に小さな窓のついた鉄格子の小窓があるだけだった。
ガチャリと音を立てて鍵が開けられると、重い音を立てて扉が開く。途端に時代を経たかび臭い匂いと、下水の匂い、湿気た空気が流れてきた。
「おい。起きているか?」
主人が声をかける。廊下の明かりで漸く部屋の中が見わたせた。
ひと一人が漸く寝られるほどの小部屋だ。用を足すように置かれたツボから長年蓄積された異臭が放たれている。窓など一つもない。空気取りに小さな穴が壁の上部に開いているくらい。
その部屋の隅に小さな塊があった。
ハイト?
主人がもう一度声をかけるより先、シーンがそのもとに駆け寄る。肩に手をかけ確認すると、蹲る塊はやはりハイトだった。
ホッと息をつくも、その様に唇を噛みしめる。
横になるハイトの意識はなかった。両手は前で縛られ、そこから血が滲んでいる。着衣も上着はほとんどはだけかろうじて肩に引っかかっている程度だった。下は履いてさえいない。
「……っ」
シーンはすぐに抱き上げその部屋からハイトを連れ出す。弱くはあるが胸の上下で呼吸が確認できる。
「いったい──、彼に何を?」
「それは──ここは、男娼も扱う宿ですから…。そいつは躾ようとしたうちのもんに殴りかかったんです。それまですっかり大人しくなっていたのが急に暴れ出して…。店を飛び出そうとしたんですが、足が悪いらしくすぐに捕まりました。後は仕置きしてここへ放り込んだまでで。よくある事なんですよ。ごく当たり前の──」
するとシーンは主人を眦を釣り上げて見返し。
「人の扱いではありません。彼はものではないのです。ひとつの大切な命だ。それを…」
シーンは抱えたハイトを見下ろし唇を噛みしめる。頬や腹には殴られた跡が幾つも痣になって残っていた。唇には血の跡もある。ここへ放り込まれた時点で意識を失っていたのだろう。
どんなに、辛かったか──。
腕にギュッと抱きしめる。
「彼を、医師に診せに連れて帰ります。…リオネル、いいでしょうか?」
「もちろん。後の始末は任せておいてくれたまえ。──おい」
そう背後に声を掛ければ、いつの間にいたのか、従者が二人背後から現れた。屈強な身体つきのそれは、ただの従者でない事が知れる。
「わ、私はなにも! そ、それにそいつはちゃんと生きてたじゃないですかっ!」
「息をしていればいいというものでもないさ。自分のやったことがどういうことか、身をもって知るといい。この店も終いだな。私が引き受けよう」
「そ、そんなっ!」
悲痛な主人の叫び声がしたが、シーンは構わずその店を出た。ここではきっと同じ目に遭い、生きて出られなかったものも数多くいたのだろう。
『ごく当たり前のことで──』
主人の言葉を噛みしめる。
これが当たり前であっていいはずがない。
いつのまにかもう一台、車がつけられていた。従者の一人がリオネルに頼まれたといい、車に乗るのに手を貸してくれた。
すぐに手首のロープをポケットに隠し持っていたナイフで切る。これはいつも常備しているもので、護身用の意味もあった。
車は二人を乗せ動き出す。行き先はクレールの医院だった。
着ていた上着を脱ぐとハイトをそれで包む。初めてハイトと出会った時を思い出した。あの時も、ハイトをこうして腕の中に抱きクレールの元へ向かったのだ。
あの時は、腕に抱くハイトをここまで大切に思う事になるとは、思ってもみなかったが。
「……?」
頬や額に着いた血の跡を、そっとハンカチで拭っていると、腕の中のハイトが僅かに身じろいだ。
「ハイト。気が付いたか?」
頬に手を触れさせれば、ゆっくりと目が開き、ブルーグレーの瞳がシーンを捉えた。何度か瞬いた後、顔がくしゃりと歪むと、目の端から涙が一筋こぼれていく。
「…ーン…」
「もう大丈夫だ。…安心するといい」
「──…っ」
シーンに縋る様に額を擦り付けると、そのまま意識を失った。
いや、今度こそ、穏やかな眠りについたのだろう。苦し気な表情はそこにはない。
クレールの医院に到着するまで、シーンはずっとその身体を抱きしめていた。
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