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「災難だったな…。怪我は打撲が主だ。あとは脱水を起こしているな。貧血もだ。とにかく、起きたら何か食わせる」
「他は…?」
するとクレールはふっと笑んで。
「大丈夫だ。そういう意味での手は出されてないな。…前とは違う」
「そうか。良かった…」
別室で、とは言っても薄いカーテンの向こうにはベッドの上に横たわるハイトがいる。今は看護師のカリダが面倒を見ていた。ロシュは休みの日らしい。
カリダは豊かな黒髪を持つ、がっしりとした身体つきの女性だった。ブルーの瞳が強い輝きを放つ、頼もしい女性だ。
彼女はカーテンを少し開け、こちらに顔を出すと。
「クレール、キッチンにクリームスープとショートパスタを用意してあるわ。ハイトが目覚めたら食べさせてあげて。私は患者に薬を届けに行ってくるわ」
「了解」
クレールの言葉に看護用に身に着けていたエプロンを外し椅子に掛けると、ハイトの掛け布団をもう一度引き上げ、診察室を足早に出ていった。
カリダは何事もてきぱきとこなし、クレールなどよりよほど頼もしい。きっと、ここを取り仕切っているのも彼女だろうと知れた。
「ロシュと言い、ここにはいい人材が揃っているな」
「俺の人徳だろう?」
「──そういう事にしておく」
シーンはそれまでかけていた椅子から立ち上がると、こちらと隔てていたカーテンを捲り、眠るハイトの傍らに立った。
すっかり身体も綺麗に洗われ、居心地のいいベッドで穏やかな寝顔を見せている。そっとその頬に指先で触れた。
「シーン。お前んとこの坊ちゃん。どうにかしねぇと、こいつが無事だと分かれば、また手を出してくるぞ?」
「分かっている…」
結局、ヴァイスには宥めすかし、優しい言葉で諭しても分からないのだ。悲しいけれど厳しく接しなければ理解できないだろう。
それは、今までヴァイスとの間に築きあげてきたすべて否定することになる。
幼い頃より一緒に過ごしてきたヴァイスに情がわかないはずがない。弟の様に思っていた。成長を楽しみにしていたし、仕えることに意義を持ってもいた。
自分への執着がなければ、もう少し穏やかに過ごせただろうし、お屋敷で生涯を全うしただろう。
けれど、それをすべて否定しなければならない。ほんの僅かでも未練を残すようなことを口にすれば、態度に示せば、ヴァイスはそれを見逃さない。きっと何時まで経っても、シーンを諦めないだろう。
全てをなかったことに。
それを避けたくてここまで来たのだが、それはもう無理な様だった。
「…?」
すると、ハイトが身じろぎ、目をゆっくりと目を開いた。ブルーグレーがシーンをしっかりと捉える。澄んで静かな色を湛える瞳。
この瞳を、二度と目に出来なくなる所だったのだ。
「…ここはクレールの医院だ。水分を少し取ろうか? それとも、何か口にした方が良ければ──」
ハイトは小さく首を振ると。
「シーン…。会えて、良かった…。もう、会えないんじゃ、ないかって…」
つっと頬に涙が滑り落ちていく。
それをそっと指先で拭ってやると、ハイトと視線が合うように、そこにあったイスに腰かけた。
「済まなかった…。怖かっただろう? もう少し、注意しておくべきだった。私は君が何処へ行こうとも、きっと見つけ出す。諦めなどしないよ。こんな事は今後、二度と起こさせない。けれど、今回は──本当に済まなかった…」
優しく頬を撫で、前髪をかき上げると、額へキスを落とした。
「俺が、いけないんだ…。いくら、シーンからの事付けだって言われたからって、ついて行って…」
「ハイト。君はひとつも悪くない。人を騙す方が間違っているんだ。──もう、この話は止めよう。君が無事だった、そのことだけで充分だよ」
「シーン…。会えて良かった…」
もう一度、同じ言葉を繰り返す。そこには、今回の事だけでない、言葉以上の思いが込められている気がした。
「……」
涙が零れ落ちていく。
きっと、死も覚悟したのだろう。
シーンは唇にキスを落とすと。
「ハイト…。次に起きるまで私はここにいるから。まだ眠りたいなら眠るといい…」
「ん…」
額を合わせるようにしてそう口にすれば、漸くハイトは目を閉じ、穏やかな表情を見せた。そうして、ハイトがすっかり眠りについたところで。
「お前ら、いつの間にそういう関係になったんだ?」
クレールは腕を組んでそんな二人を見守っていたが。
「…いつでもいいだろう? 自然の流れだ」
ハイトの柔らかな髪を撫でながら、シーンは答える。
「まあ、そんな気はしてたが…。あの坊ちゃんが妬くわけだ。で、どうするんだ?」
「はっきりというだけだ。縁を切る」
「…お前にできるのか?」
シーンは苦笑いを浮かべると。
「大切なものを守るためなら、幾らでも」
クレールは肩をすくめてみせ。
「お前さんでも、そんな顔するんだな? ふ、分かった。お前が蹴りをつけてくるまで、ハイトはきっちり面倒を見て居よう。こいつの家族もな?」
「ありがとう。クレール。なにからなにまで…」
「これくらいなんでもないさ。友人の危機だ。まだ足りないくらいだ。普段、ロシュやカリダに越されているからな? たまには役に立つところを見せないとな」
「…感謝する」
冗談めかしてそう口にしたクレールのその存在に、心から感謝した。
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