29.幸せな記憶

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29.幸せな記憶

 その日、朝から小雨が降っていた。  今日は昼過ぎ、シーンと二人、サンティエという、シーンの叔母が住む村へ様子を見に行く予定だった。  ハイトは路地を出た先、いつもの場所でシーンを待つ。馬車で迎えに行くと伝えられていた。  朝から心が浮き立つ様で、降り続く雨も気にならない。  シーンから貰った靴は濡らしてはいけないと、古いものを出してきて履いている。きっと、あちこち歩き回るのだろうから、履き古している方が都合良かった。  雨宿り代わりに借りていた軒先の雑貨屋の主人とは顔見知りだ。世間話をしながらシーンの到着を待つ。  シーンの叔母さんはどんな人だろう?   お土産にルバーブを入れたクランブルを焼いた。小麦粉やアーモンドパウダー、バター、砂糖を混ぜた生地の下に、細かく切った赤いルバーブを綺麗に並べて焼いたパイだ。  イチゴも混ぜたから、酸味の中にイチゴ特有の甘さも加わって美味しい。  腕に抱えたそれはまだ温かい。朝、焼き上げたばかりだ。  気に入ってくれるといいけれど。  きっと、料理も上手だろうから、もっと美味しいものを作るのだろう。  シーンが言うには、よくいる田舎の叔母さんで、おせっかいで話すことが大好きな、元気な人らしい。  それでも、若い頃は都会で働いたこともあり、考え方が古いわけではないのだとか。自分たちの関係も受け入れているとの事だった。  とにかく、跡を継いでくれるなら他は何も言わないと言っているらしい。  広いブドウ畑とその他の野菜を育てる農地。他に乳牛を管理している。  馬も数頭所持していて、こちらはもっぱら移動手段として使っているとの事だった。車もあるが、重い重機を運ぶ以外はほとんど使わないらしい。  今からとても楽しみだった。そして馬と言えば、主のクライヴが屋敷を辞すにあたって、一頭の馬を与えてくれた。  それは馬番のキエトが熱心に進言したお陰で成立したのだ。  与えられたのは、前に飼っていたフルー。十八歳になるため、そろそろ引退を考えてもいい馬だと進言し、どうせ引き取り手がいないだろうから、田舎へ引っ込むハイトへ餞別代わりに引き渡してはどうかと提案してくれたのだ。  ハイトはまだ勤めたばかりで早々、高い退職手当ては渡せない。それでいいのならと、フルーを与えることが許可されたのだ。  じきに処分する馬なら、与えても支障はないと考えたようだ。しかし、ハイトにとっては願ったりかなったりで。嬉しいことばかりで、怖くなるくらいだった。  待ち合わせの時間に少し遅れて馬車が到着した。いつも頼む馬車と違って、どこか古びて見える。御者もなじみのものではなかった。お屋敷で使う馬車の業者は決めていると言っていたのを思いだす。  遠出をするから別の業者にしたのかな?  首をかしげながらも、中を覗き込めば、そこにシーンの姿はなかった。 「あれ? シーンは?」  すると、御者がぼそぼそとした声で。 「お屋敷で急用が出来たそうで…。先にサンティエに向かってくれと頼まれました…」  聞き取りにくい声音でそう伝えてきた。  それなら仕方ない。ハイトは訝しく思いつつも、抱えていたまだ温もりのあるパイを先に座席に乗せ、自分も後から乗り込んだ。  すると雑貨屋の主人が心配そうな顔をして、 「気を付けてな?」 「うん! じゃあ、行ってきます」  元気よく手を振って扉を閉めると、馬車は出発した。  村まではここから二十キロほど離れている。休憩を挟めばほぼ半日はかかる距離だった。その長い道中を一人で過ごすのは寂しかったが、それでも普段は見られない景色を見ていけば気にならないだろうと思った。  馬車はそれからすぐに街中から外れると、普段はあまりというか、まったく足を向けない風紀の良くない路地へと向かう。  近道にもでなるのかな?  窓の外に流れる景色はだんだんと薄汚れ、灰色がかった景色となって行った。  道の端々にはまだ日は高いと言うのに、胸が見える程のはだけたドレスや衣装をみにつけた男女が立ち、または蹲っている。ふらふらと歩き回る、浮浪者も数多くいた。  前にふらりと足を向けてしまった路地より、更に環境の良くない場所のようだ。  流石におかしいと思い、小窓から顔をのぞかせ、御者に尋ねる。 「あの! これはサンティエに向かっているんですよね?」 「……ああ」  御者は暫くの沈黙の後、そう答えた。  しかし、ハイトの中で疑問がむくむくと湧いてくる。地図で見せてもらったサンティエまでの道のりに、この路地を通るような経路は無かった気がした。  ならばどうしてここを通るのか。首をかしげたくなる。  それから一時間ほどして、馬車が唐突に止まった。周囲は高い建物に覆われ、日が差さない。目の前には、石造りの古びた建物があった。ようやく上がった雨に、じっとりと黒く壁面を濡らしている。  路地は薄暗く、まだ午前中のはずなのに、そこはまるで夕闇に包まれている様だった。 「どうしたんですか?」  小窓から御者に再度尋ねるが、返事は返って来ない。不審に思ってドアを開けようとすれば、逆に外から引っ張られ、勢いあまって地面に転がった。 「なんだ。こんなガキか…」  したたかに打った腰を擦りながら身体を起こせば、頭上でそんな声がする。 「言われた通り、運んできただけだ…。金を寄こせ」 「わかったよ。ほら、──残りだ」  ハイトが立ち上がって服についた埃を払っていると、御者は扉を引いた男から金を受け取り、馬車を出発させる。 「まって! 中にお土産が──」  ハイトは慌てて中に戻ろうとするが、その肩をむんずと掴まれて引き戻された。  馬車はあっという間に、ハイトの焼いたパイを乗せたまま路地の向こうへ消えてしまった。
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