31.麦畑

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31.麦畑

 シーンは生い茂る小麦畑の前に立っていた。  黄金色(こがねいろ)に輝く小麦の穂が風に吹かれ、さざ波の様に揺れる。  その向こうで、こちらの呼び掛けに気づいたハイトが作業を止め、手を振ってきた。  シーンも負けじと振り返すと。 「昼食の時間だ!」 「分かった! 今行く」  麦をかき分け、彼がこちらに向かってくる。まるで黄金の海原を泳いで来るよう。  途中、被っていた麦わら帽子が風に飛ばされ、背中へ跳ね上げられた。  すっかり日に焼け、そばかすの浮くハイトの顔があらわになる。それは、シーンの目にとても好ましく映った。  ここへ越してきて一年が経とうとしている。  叔母はひと目でハイトを気に入り、その家族、ラルスもエルミナルも喜んで受け入れた。  叔母とラルスは年が近い。いい話相手となった。それに、叔母には子供がいない為、エルミナを孫のようにかわいがり。  農場も順調だ。  今年は天候にも恵まれ、何もかも豊作だった。牛の方も乳の出が良く、そこから作られるチーズやバターは街に持っていくと、飛ぶ様に売れる。わざわざ欲しいとここまで訪れる者もいる程だった。  ハイトはシーンのもとまで来ると、髪を押さえながら背後を振り返る。 「本当に、とてもいい畑だね。何でもよく育つ」 「そうか。しかし、熱心なのはいいが、少し日に焼け過ぎじゃないか? 痛いだろう?」  赤らんだ頬に手を触れさせれば、心地よさそうにハイトは目を閉じた。  ハイトはあれから少し身長が伸び、日に焼けた。作業のお陰で筋肉が付き、精悍で凛々しい青年となり。見ていて眩しいほど。 「シーンの手。冷たくて気持ちいい…。シーンが触ってくれるから、少しくらい日焼けしても平気だ」 「何を言って。ほら、帽子をかぶって。その分だと、ろくにかぶっていなかっただろう」  言いながら、背中で揺れていた麦わら帽子を被せ直す。 「熱中しているとさ、つい。雑草もこまめに取らないとね。でも、シーンは、焼けないね? 少しは黒くなってもいいのに…」  ハイトは羨ましいと言いたげに見上げてくるが。 「焼けても赤くなって終わりだ。ハイトが羨ましい」 「羨ましくなんかないって。やっぱり、白くて透き通るようなの、いいなって思うもん。シーンは肌がきれいだ…」  シーンは笑うと、ハイトを腕の中に囲い。 「私は──良く焼けたパンみたいなハイトが大好きだ。光を浴びて、まるで太陽そのものだ。いつもキラキラしている…」 「もう。焼けたパンて…。でも、シーンがいいならいいや。気にしない」  ぎゅっと抱きついてきた。その拍子にまた帽子が背中に落ちる。シーンはその背に手を回しながら、額にキスを落とすと。 「さあ、ランチに行こう。皆が待ちくたびれている」 「うん。アンリもキエトも待ちぼうけだね」 「キエトはいいが、アンリは大騒ぎだな…」 「食べることが大好きだもんね。あんなだとは知らなかったよ。少し食い意地が張ってるくらいだって思ってたのに…」 「人は見かけに寄らないな?」  アンリのキッチンで獲物を狙うイタチの様に、いつも目を光らせている樣を思い起こし二人で笑い合う。  そうして家へ向かえば、玄関先でアンリが手を振って呼んでいるのが見えた。  飯! そう叫んでいる。  その必死な様子に、シーンはハイトと顔を見合わせて笑った。  アンリは農場の作業が忙しい時、手伝ってくれていたのだが、そのうち正式に雇うことになり。  最近、近所の農場の娘といい雰囲気だとはハイトの談だった。  シーンはそれより、エルミナとの仲の良さを微笑ましく思っているのだが──それは、ハイトにはまだ言わないでいる。  くっつく時はどんなに裂こうとしても、そうなるものだ。縁がなければそれまで。シーンは見守る事にした。  キエトは屋敷での仕事を引退し、子どももおらず、早くに妻を亡くしていたため、ひとりやもめ、どうしようかと悩んでいた所へ、シーンが手伝わないかと声をかけたのだ。  高齢ではあるが、まったくそれを感じさせず、日々馬や牛の管理にいそしんでいる。  ラルスと叔母さんと共に、よく昔話に花を咲かせていた。  エルミナルは近郊の学校に通っている。友だちと勉強後に、広い農場を駆け回るのが日課となっていた。男女構わず呼んでは、あちこち冒険と称して走り回っている。  この分では先が思いやられると、ハイトがぼやいていたが、それはそれでいいのではないかとシーンは思っている。元気なのはいいことだ。  レヴォルト家は当主をクラレンスが引継ぎ、領地を完璧に治めていた。  父オスカーは職を辞したが、クラレンスに請われて指導役としてとどまっていた。  仕事を途中で放棄した息子に代わって、役に立つ人間を育てるのが仕事となっているらしい。  クライブは屋敷から少し離れた別宅で、静かに余生を過ごしていると言う。  そしてヴァイスは──。  あの後、猶予付きで釈放され、叔父リオネルの元に身を寄せていると言う。  すっかり意気消沈し、以前の高慢さは影を潜めたようで、まるで魂の抜けた夢遊病者の様だと、一度往診したクレールが話してくれた。  精神を病んだらしい。  だが、そのヴァイスにも付き添うものがいた。悪友でもあった友人だ。彼が甲斐甲斐しく面倒を見ているお陰で、なんとか保っているらしい。 「捨てる神あれば、拾う神あり、だな?」  笑うクレールに、口の端を僅かに吊り上げてみせるだけにとどめた。  何も彼に言う事はない。ただそれなりに過ごせているならそれはそれで良かったと思う。彼とは二度と、人生が交わる事はないだろう。 「シーン、午後は少し休んでから街にでるって?」  アンリは四度目のパンのお代わりを、叔母の給仕を手伝っているハイトに要求しつつ、シーンを振り返った。 「ああ。うちのチーズを気に入ってくれた店に売り込みだ。ジャムやワインもどうかと。ハイトも連れていく。今晩は泊ってくるからそのつもりで」 「了解。いいなぁ。エルミナ、お兄ちゃんは恋人とデートだってさ。いいなぁ。俺も恋人と出かけたい…」  傍らで黙々と食事に専念していたエルミナに声を掛けるが。 「あら、おととい、隣の農場の娘さんと、仕事そっちのけですっかり話に熱中していたのはだれ? で」  そこを強調すれば、アンリはうへぇと声をあげ天を仰いだ。 「ハイトもシーンもセールスのお仕事よ。終わってからは自由だもの、しっかり用事が済んだなら、何をしても自由だわ。お仕事を済ませたらね?」 「エルミナ…。俺にあたり、強いね…」 「鼻の下ばかり伸ばしているからよ。ハイトやシーンを見習ってね? 見習いさん」 「ぐ…」  二人のやりとりに皆が笑った。
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