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 祭りの時の、楽しそうな街の喧騒はレナエル・エミルフォークにとって、広大な庭のその先の、塀を隔てた屋敷の窓から眺めるものでしかない。  ここ、シュヴァネリア王国は人口のほとんどを獣人が占める国であり、純粋な人間であるレナエルはその希少性から、屋敷から出ることを禁止されているからだ。  しかもオメガだからか、背があまり伸びず、同年代の、十歳ぐらいの年齢の子供と比べると身体つきは小さい。  椅子を持ってきて、その上に登り、レナエルはやっと窓の外を見る事ができた。 「良いなあ、楽しそうだなあ……」  ほお杖をつき、ため息が出た。ほんのりと明るく街の方が光っている。何かはわからないが、楽しい催し物をしているのだろう。 「一度で良いから僕も行ってみたいよ……」  ぼそっと呟いてみたところで、家族、特に父親が許可をしないだろうから夢の話だ。  これ以上見ていると、切なくて、涙が出てきそうで、レナエルが椅子から降りた時だった。 「レナエルおぼっちゃま、太陽祭へ行きたいのですか?」  扉付近に立っていたのはメルゥという猫獣人の女性使用人だ。レナエルの世話をしてくれている。また細やかな気遣いのできる女性で、レナエルはメルゥを普段から慕っていた。  レナエルがもう寝ていると思い、黙って入ってきたのだろう。そして独り言を聞かれてしまった。  レナエルは素直に打ち明けた。 「行ってみたいです……、けどだめ。お父様が許さない、外は危険が多いですから」  最近人身売買の事件が街を賑わせている。父から新聞を読まされ、そういう事件にレナエルが巻き込まれる危険性を教えられていたのだった。  レナエルは俯く。メルゥに泣いているのがバレるのが嫌で、目元をごしごしと袖に擦り付けた。 「泣かないでください」  側に駆け寄ってきたメルゥに抱きしめられる。後頭部を優しく撫でられ、メルゥの胸元にレナエルの涙が染み込んでいった。 「今から私は休憩の時間に入ります。その時だけ、街へ連れて行って差しあげましょう」  囁かれた言葉に驚き、レナエルは顔を上げた。  本当、と、思わず大きな声を出すと、し、と人差し指を口元に立てられた。 「私からは絶対に離れないこと、それとフードを被って、飾り物の犬耳をつけましょう。それならきっと周りにはバレませんから」  もう涙は引っ込んでいた。幼いレナエルの頭の中は街へ行き、楽しい祭りに参加できる喜びで頭がいっぱいになった。バレたら父親に叱られるかもしれない、と頭を過ぎったが、バレなければいい。メルゥの休憩時間の間だけということだから、長時間ではないだろう。  メルゥは自室に一旦帰り、荷物を持って、レナエルの元へ戻ってきた。そして飾り物の犬耳をつけられ、ブカブカのフードを頭から被せられる。 「さあ、これで大丈夫。行きましょうか」 「うんっ!」  初めての太陽祭ということで、レナエルは興奮している。なるべく声を抑え気味にし、メルゥの手をしっかりと握り、屋敷の外へと出た。    どれだけ時間が経ったのかはわからない。暗く、狭い箱の中では身動きが取れない。身体の節々が痛みを訴え始めた頃、諦めがレナエルの心を埋め尽くしていた。 (メルゥは、どこに連れ去られてしまったんだろう……)  屋敷の外へ出て、初めは楽しくメルゥと太陽祭を楽しんでいた。屋台で買い食いをしたり、異国風の露天商で見たこともない奇術を見てみたり。花火を間近で見たのも初めてで大きな音に最初は驚いたが、屋敷の窓から一人寂しく見ているものとは全然迫力が違った。  しかしはしゃぎすぎたレナエルは、頭につけていた犬耳をどこかへ落としてしまい、目深に被っていたフードは風に吹かれ、周囲にレナエルが獣人ではなく、純粋な人間であることが知られてしまったのだ。  レナエルの生まれた国、シュヴァネリア王国は人口のほとんどを獣人が治める国だ。それに男女の性の他にアルファ、ベータ、オメガというバース三性が存在している。これらはそれぞれ、生殖能力によって分けられていた。  まず人口の三割ほどを占めているのがアルファだ。男女の性とバース性に関係なく、孕ませることができるが、特にオメガとは子供が作りやすい、と一般的に言われていた。獅子や狼、熊など肉食系動物をルーツに持つ獣人に多い。  次に人口の六割以上を占めるのがベータだ。ベータは異性のベータ、もしくはアルファとの間に子供を作ることができるが、オメガとの間に子は出来にくい。主に雑食、草食系の動物をルーツに持つ獣人が多かった。  最後に人口の一割にも満たないのがオメガだった。男女ともにどのバース性とも子供を作ることができ、アルファかオメガしか産まない。  またオメガは思春期を迎える頃から月に一度、一週間ほど、発情期と呼ばれる期間があった。その期間になると、アルファを誘うフェロモンを発するようになる。これはアルファなら誰彼構わず作用してしまうが、番という存在を作り、その番にうなじを噛まれると、そのオメガのフェロモンは番のアルファにしか効かないようになる。  この期間に性行為をすると、子を孕む確率が高い。またオメガは、大人しい草食系や小型動物をルーツに持つ獣人が多かった。  獣人の国ではあるが、獣の特徴を持たない人間も少ないながら住んでいる。その中で、人間のオメガは特に貴重で、稀にしか生まれない存在であった。  人間は、未発達の国であれば迫害や搾取の対象となったり、生贄として捧げられたりなど、酷い扱いを受ける場合もある。またその希少性から、非合法の奴隷市場では高値で取引きされていた。 (お父様の言いつけを守らなかったからだ……)  ぐ、と猿轡を噛み締める。ガサついた布が頬に食い込み、痛んだ。  夏なのに、だんだん手足の先から身体が冷えてくるような感じがして、気持ち悪い。 (それに……、僕がメルゥにわがままを言った)  涙はどんどん溢れてくる。涙で身体の下に敷いてある、埃っぽいクッションが濡れそぼってしまいそうだ。  しばらくすると、外から声が聞こえてくる。 (あぁ、お話が終わったのかな……)  人買いの男はレナエルをここに閉じ込める時、奴隷業者と値段の交渉をしてくる、と言っていた。きっと商談が終わり、レナエルを売り飛ばすべく、戻ってきたのだろう。  複数人の話し声と足音が近づいてくる。中には怒号のような声も聞こえた。レナエルは身体をすくませる。時間が空き、冷静になっていたが、また恐怖が蘇ってきた。 (怖い、嫌だ……! 売られるなんて嫌だ!)  どこかもわからない場所へ連れて行かれ、家族や使用人たちと離れ離れにされてしまう。  恐怖が頂点に達した時、部屋の扉が壊されるような、大きな音がした。 「ここだっ!」  凛々しい男性の声だ。先ほどの人買いの男たちのような下卑た声色ではない。気品がありながらも、猛々しく興奮をしているように聞こえた。 (助けて……!)  助けなのか、別の人買いなのか、何なのかはわからない。けれど、どうしようもなくて、レナエルは身体を震わせることしかできない。 「ここだ!」  蓋が開けられ、眩しい光が瞳を刺す。目を開けていられず、瞼をきつく閉じた。  誰かの手が頬に触れた。何をされようとしているのかわからない。レナエルは必死に顔を背け、逃げようとする。 「あぁ、嫌だ! 触らないでっ!」  いつの間にか声が出せるようになり、驚いた。猿轡が外されたのだ。  しかし何が起こっているのか、きちんと把握できていない。まだパニック状態のレナエルは喚き、手錠をかけられたままの不自由な身体でじたばたと暴れた。 「落ち着け! 俺たちは騎士だ!」   その声にはっとなり、レナエルは声の人物に目を向けた。  灰褐色の狼耳がまず視界に入った。そして、狼耳の毛並みと同じ色の瞳が真っ直ぐレナエル・エミルフォークを見つめていることに気がつく。  その真摯で、強い眼差しから目が離せない。レナエルは一瞬、緊迫した状況を忘れ、雨の夜の月光みたいな、灰色の瞳に見いってしまった。 「大丈夫だ、レナエル・エミルフォーク。もう誰もお前を傷つける者はいない」  抱き起こされ、手錠が外される。頬を撫でられ、親指で優しく涙を拭われた。  レナエルは涙を拭ってくれた狼獣人の騎士に抱き上げられた。大きな手がまだ小刻みに震えているレナエルの背を撫でる。 (僕、助かったのか……)  まだ緊張は続いている。しかし身体の震えは少しおさまった。  顔が熱い。とくとくと心臓が大きく鼓動を打ち始めた。しかしそれは、不安や恐怖とはまた違う胸の高鳴りのようだ。しかし混乱していて、うまく自分の感情が把握できない。  何とも仕様がなく、レナエルは狼耳の騎士の首に手を回し、しがみついた。     意外にも父親には怒られなかった。 「あぁ、レナエル、無事で、本当に無事でよかった……!」  獅子獣人の父は身体が大きい。ぎゅうぎゅうに抱きしめられ、少し苦しい。だがそれだけレナエルのことを心配していたのだろう。 「お父様、ごめんなさい……、僕が言いつけを破って、勝手に外に出たから……、メルゥにわがままを言ったからなんです……」  抱きしめ返しながら、レナエルは小さい声で謝罪の言葉を口にする。 「良いんだ、お前が無事に帰ってきた。それだけで良い……」  鼻をすすり、時折父の声が掠れる。心配と心労をかけた、と思うと、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。  一安心はしたが、まだレナエルには気になることがある。一緒に祭りに来たメルゥのことだ。 「お父様、メルゥは……? 一緒に拐われてしまい、僕を助けようとしてくれたんですが、顔をナイフで切られて、痛めつけられてしまいました。どうしているか、知りませんか?」 「メルゥ?」 「猫獣人の、女性の使用人です……、僕が太陽祭に行きたいって言ったから……、巻き込んでしまったんです」  レナエルは俯く。軽率な行動を慎むこと、なんて貴族の御曹司なら生まれた時から教えられる常識だ。  それを破った結果が何の非もないメルゥを巻き込んだ惨事になってしまった。反省してもし足りない。もっと自分の存在や立場を考えて行動をするべきだったのだ。  「第二王子のキリアン殿下が率いる騎士団によって、人買いたちのアジトは一網打尽にされたと聞いている。囚われていた者たちも全員解放され、適切な治療を受けているから、そのメルゥという使用人も大丈夫だろう」  それならよかった、とレナエルは胸を撫で下ろした。安心で声が出ず、ふう、とため息が漏れてしまう。  メルゥも大丈夫だと聞き、父の大きな胸に抱かれ、レナエルはどっと疲れを感じた。大きな怪我こそないものの、誘拐され、狭い暗闇の中、拘束されるという経験は十歳の少年がするにはあまりにも悲惨な経験だ。  まだ落ち着かない気持ちはある。早くメルゥのところへ行き、彼女に謝罪したかった。けれど辺りは騎士たちや野次馬などでごった返しており、父から離れるとまたはぐれそうで怖い。  しかし、不思議とレナエルは落ち着いている。 (綺麗な瞳だった……)  安心感と共に思い出されるのはあの瞳だ。灰褐色の、真摯な眼差しが忘れられない。 「そういえば、灰色の狼獣人の騎士はどなただったのでしょう?」  レナエルを助けてくれた彼は、レナエルを父に引き渡すと、すぐさま、現場の方へ戻ってしまい、お礼を言う暇もなかった。  艶やかな灰色の短髪と同じ色の瞳が忘れられない。闇夜の灰色の月光から生まれたようだ、とレナエルは感じた。そこに夜の雨を落とせば彼のような綺麗な艶やかな、気高い狼獣人になれるのかもしれない。 「キリアン殿下だ。第二王子で、あの方が王宮騎士団を率いておられる。美しく、強い狼獣人のお方だろう? アルファで、第二王子であるが、次期王太子候補との呼び声も高い」 「キリアン……、様」  第二王子だとか、次期王太子候補だとか、そんなことはレナエルの耳に入ってきてはいない。  小さく名前を呟くと、頬が少しだけ熱くなる。また胸が勝手に鳴動し始め、レナエルは困惑した。どうすれば良いのかわからず、父に顔を押し付ける。 「どうした? 顔が赤いな、傷や外傷はないとのことだが医者に診てもらおうか」  医者に治せるのだろうか。レナエルはあの灰褐色の瞳を思い出すと、胸が高鳴り、頬が熱くなってくるのだ。  けれど、父親には逆らわず、わかりました、と返事をし、父に連れられ、救護所の方へと向かった。
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