天国と地獄

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「え? ここが地獄?」  おれは思わず声をあげた。  おれと同じ小舟に乗ってきた十数名の死者たちも、やはり驚き、茫然(ぼうぜん)としている。  なにしろ目の前にあったのは、見わたす限りお花畑の広がる、のどかな村の風景だったからだ。細く曲がりくねった小道を人々が散歩し、草むらに腰をおろして談笑する人たちもいる。おれが死んだとき、閻魔(えんま)大王から「お前は地獄行き」と告げられたのだが、ここはどう見ても、天国ではないのか? 「さあ、おりて、おりて」  と、そのとき、舟をこいできた役人がおれたちを追い立てた。船着き場におりたつと、待っていた役人が、おれたちをそれぞれの住居へと案内してくれた。  質素ではあるが、清潔な家に腰を落ちつけると、その日から地獄世界での生活が始まった。  朝・昼・晩と、一日三回、滋養(じよう)のある食事が届けられる。お風呂は大きな共同浴場に入る。日中はすることがないから、村人たちと、愛と平和について、おだやかに語りあう。お茶を飲み、素朴な味のおやつをいただく。やはりここは天国……。  と思っていたのは初めのうちだけだった。  毎日毎日、そんな平和で単調な生活が続くのである。お風呂はひどくぬるく、入った気がしない。食べ物は、滋養はあるのだろうが、薄味(うすあじ)でものたりない。おしゃべりも、毒のある話はいっさい交されない。そんな生ぬるい生活が、未来永劫(みらいえいごう)続くのかと思うと、確かにここは地獄なのだった。  ある日おれは耳よりな情報を聞きこんだ。一年に一度だけ、気分転換ということで「日帰り天国ツアー」が開催されるのだという。  おれはすぐさま申しこんだ。倍率は高かったが、運よく当選することができた。やがて、おれを含めて十数名が、小舟に乗って天国に到着したのだった。  そこはギラギラした原色の世界だった。  黒い岩肌が果てしなく続くなかに、赤く煮えたぎる池があり、あちこちから噴煙(ふんえん)が立ちのぼっている。そんななかで、人々は車座(くるまざ)になって酒を呑み、踊り、歓声をあげている。彼らを少し離れて見守るのは、太い金棒を持った赤鬼たちだった。  なんて刺激的なのだろう。  おれはさっそく近くの池に飛びこんだ。赤い入浴剤の入った熱めのお風呂だった。熱い湯の好きなおれにはたまらない。風呂あがりには、鬼がイボのついた大きな金棒で、うつぶせに寝たおれの背筋をマッサージしてくれる。実に気持ちいい。マッサージのあとは、背中のツボにもぐさを乗せ、シュッと火をつけてくれる。一瞬アチチとなるが、その刺激もたまらなくいい。マッサージとお(きゅう)が終わると、針の山にのぼった。足裏のツボが刺激されて、なんという心地よさ。健康サンダルなんてメじゃない。それが終わると、美人の鬼たちから、まっ赤な色の酒をふるまわれた。地獄では禁酒だったから、久しぶりの酒だ。ぐいとあおると、胃のなかにアルコールが()みわたる。まさに極楽浄土(ごくらうじょうど)の快楽である。おれは車座(くるまざ)になっているグループに混ぜてもらい、さらに呑み、かつ踊り、歌まで歌ったのだった。  もちろん、そんな楽しい時間が、いつまでも続くわけがない。なにしろ、おれたちはあくまでツアー客にすぎないのだから。  一日の終わりには、役人にひったてられ、おれたちは帰りの小舟に乗せられた。今夜から、またあの地獄で暮らすことを思うと、気がふさいだ。  逃れる方法はただひとつ。人間に生まれ変わらせてくれ、と頼むしかないようだ。                             〈了〉
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