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 石造りの建物は冷ややかな印象を見る者に与える。建国されてから二百年、当時からの建物であるが、改装と改築を繰り返しているものの、外観は昔からほとんど変わってはいない、と何かの教本で読んだことをレア・ハルスウェルは思い出した。  その軍務省敷地内の近衛騎士団本部が入っている庁舎はこれまた厳しく、古臭い建物だ。  レアはその建物の廊下を足音を鳴らしながら、早足で歩く。時折、しゃら、と胸元の徽章たちが空虚な音を立て、その度に足音が強くなった。 (あり得ない! ようやく白百合の騎士に抜擢されたと思っていたのに!)  白く小さな顔がわずかに紅潮している。しかしこれといって、その可愛らしい顔に表情は浮かんでいない。  自分の思い通りにならなかったからと言って、不機嫌な顔をするのははしたない、とぎりぎり理性で押しとどめているからだ。しかし時折、どうしようもない怒りが漏れてしまい、それが足音や顔の紅潮に現れてしまっていたが、レアは気がついていなかった。  ふと廊下に設置された全身鏡が目に入り、立ち止まった。騎士は優秀なだけでなく、見た目の良さも重視される。よって服装や髪型に粗相がないよう、常にチェックをしなければならないため、庁舎の至る所に全身鏡が設置されているのだ。  王妃が暴漢に襲われた日から十年が経っている。レアは現在二十一歳となり、悲願であった騎士となっていた。そして今回の人事異動で近衛騎士に抜擢されていたのであった。  通常の騎士よりも格上の存在が近衛騎士だ。王族を警衛することが主な任務であり、実務経験が三年以上と執務成績優秀な者、見目が麗しい者等と様々な厳しい条件をクリアして、ようやく任命される。  レアは鏡を見た。  支給されたばかりの、近衛騎士団の団服は紺色だ。白色ではないことに落胆するも、手入れに抜かりはなく、シワや汚れは一切なかった。少々、胸元の徽章がぎらついて見えて、違和感を覚えるが、これぐらいの違和感に慣れるようにならないとオメガの自分は、軍部ではやってはいけない。  この世界には男女の他にアルファ、オメガ、ベータというバース性がある。  アルファは支配階級の性である。男性のアルファは女性や男性オメガを孕ませることができる。  ベータは被支配者階級の性で、一番人口が多い。  オメガは男性であっても孕むことのできる性だ。  そして男性オメガは、男性機能はあるが、どのようなバース性の女性とも子をなすことができない。またアルファ男性としか子をなすことができないが、多産で、アルファを産みやすいという特徴がある。  なのでオメガ男性は主にアルファ男性の元に嫁ぐのが慣例となっていた。  またオメガには三ヶ月に一度、期間は一週間くらい、発情期と呼ばれるものがやってくる。その発情期を迎えて、特に男性のオメガは子供を作ることができるのだ。   アルファとオメガには番という特別な関係がある。  アルファがオメガのうなじを噛み、跡を残すことにより、オメガの発情期のフェロモンが番となるアルファにしか効かなくなるのだ。  オメガ特有の小作りな顔立ちは地味な方だとレアは自分では思っていた。表情が変わらないので、皆によく氷雪に例えられるが、揶揄いが半分混じったその冗談はあまり好きではない。やっかみと蔑みが多分に含まれているからだ。  悪目立ちしないよう、髪も耳元で切り揃えている。目にかからない程度に前髪は綺麗に整えられていた。  服装だけなら立派な近衛騎士だ。これで王妃を警衛する隊に配属されたら完璧だった。  しかしレアが実際に配属されたのは、名前ぐらいしか知らない、宮廷では目立たない第六王子を警衛する部隊であった。  レアは騎士の中でも近衛騎士、近衛騎士の中でも王妃を守護する『白百合の騎士』になりたかった。  レアの目の前で王妃が暴漢に襲われたことがある。まだ十一だったレアは何も出来ず、ただ王妃と暴漢の間に手を広げて立ち、王妃を庇うことしかできなかった。  そこに颯爽と現れ、暴漢を取り押さえたのが『白百合の騎士』だった。  あまりのかっこよさに恐怖を忘れ、興奮した。  しかもその騎士は『オメガだけど、騎士になりたい』と言ったレアの夢を馬鹿にしたり、否定したりせず、『君なら騎士になれる』と応援までしてくれたのだ。  それからレアは堂々と『白百合の騎士になる』ことが夢だと周囲に宣言した。  この事件の後、レアは下級貴族のハルスウェル家に引き取られた。義理の両親は共にベータで、義父は王都で市役所に務めていた。騎士になりたい、と打ち明けても反対せず、応援してくれるような家庭であった。  騎士となり、オメガだからといって正当な評価をもらえなかった時にも耐え、コツコツと自分の仕事をこなし、ついに執務成績優秀者に選ばれた。これで異動の希望が通りやすくなる。  レアは白百合の騎士、と希望を書いた。  滅多な事情がない限り、執務成績優秀者の希望はほとんどが通る。  ようやく夢が叶うのだ、と思い、貰った辞令を見て驚愕し、落胆した。  レアは再び廊下を歩き出す。左手に持った辞令がくしゃりとシワになっている。    辞令を貰い、レアは第六王子宮に向かっている。すぐに挨拶へ行け、と騎士団長に言われていたからだ。  第六王子とはいえ、王族だ。日程を調整して、というのが普通だと思ったが、すぐに行け、と言われてしまったら仕方ない。  王宮の敷地内の外れに第六王子・トリスタンの住む第六王子宮は建てられている。そんなところへ、普段は用事もない。なので、一度も行ったことがなかった。ただでさえ王宮は複雑で広い。貰った地図を頼りに向かう。  四月というのに、王国にまだ春は来ていない。昨日少しだけ降った雪が建物の影に残っている。  レアが肌寒さに身震いした時だった。 「迷っておられるのかな?」  突然声を掛けられ、ぎょっとして立ち止まる。  派手な上着を着た四十代ほどの男が立っている。一枚布で身体を覆っているような、緩やかな服装はこの国のものではない。指につけているごちゃごちゃとした指輪は高価そうだ。南国の外交官か何かかもしれない。  レアはさっと頭を下げて、道を譲った。 「お邪魔をしてしまい、申し訳ありません。お通りください」 「邪魔なんかじゃないさ、可愛らしいオメガの軍人さん」  男は近付いてくる。そして真正面にくると、レアの手を握り、手の甲に口付けた。  寒気が走り、振り解きたくなる。しかしレアは歯を食いしばって耐えた。  この男はアルファだろう。オメガのレアはアルファの気配に敏感だ。それと同じく、アルファもオメガをすぐに見つけることができる。  がちゃがちゃとしていて趣味の悪そうな服装、下卑た笑いを口元に浮かべ、にやにやとしている締まりのない顔つき。  この男は第一印象から、かなり良くない。 「そのお可愛らしい顔立ちからすると、近衛騎士のレア・ハルスウェル殿かな? こんなところで氷の女王とお会いできるなんて、ついていますね。申し遅れました、わたしはナハール。皇国の外交官の一人です」  なぜ一介の騎士であるレアのことを外交官が知っているのだろう。レアはわずかに眉を顰める。 「近衛騎士のハルスウェルです。申し訳ありませんが、ナハール様、お手をお離しくださいませんか? 私は職務中です」  ナハールは手は離したものの、レアが持っていた地図を奪う。冷や汗が背中に滲んだ。 「なるほど、第六王子宮へ行きたいのですね。わたしが案内いたしますよ、王宮にはよく出入りしておりますからな、外国人と言えど、建物は把握しております」  外国人に王宮の構造を把握されているなんて、機密はどうなっているのだろう。  こういう下衆な輩の手管は知っている。案内する、などと言って、どこかへ引き込むつもりに違いない。 「お離しください、ナハール様の手を煩わせることもありませんから」  外交官であるナハールと揉め事を起こすということは皇国と揉める、ということでもある。レアのような下級貴族のオメガなんてトカゲの足切りのように使われ、誰も真実を探ってはくれないだろう。  それに皇国は大陸で一番の国だ。この国と事を構えれば、最悪の場合、大陸全土を巻き込んだ大きな戦乱と成りかねない。  何とかここでナハールを引き剥がさなければならなかった。 「大丈夫、こちらですよ」  レアの腰あたりに手を添え、ナハールが第六王子宮とは全く違う方向へと足を進めようとした時だった。 「おっと、ハルスウェルがどうしましたか? ナハール殿」  ふわり、と甘い花の香りがした。冬の厳しいこの国のものではない。自由で、暖かい南国の花だと直感する。なのに懐かしい思いも感じる。  なんだろう、と疑問に思う前に、腕をぐい、と掴まれた。力が強い。そのまま誰かの背中の方へと追いやられてしまう。 「これはトリスタン殿下、お騒がせしておりましたかな?」 「いいえ、ハルスウェルが遅いので様子を見にきたら、何やらナハール殿のお手を煩わせているご様子でしたので参りました」  ナハールの口から『トリスタン』という言葉が出てきて、レアは助けてくれた人物の顔を急いで見上げた。  すっと鼻梁が高い。爽やかな顔立ちだが、どこか甘さも混じり、垂れ目気味の青い目と、褐色の肌と相まってエキゾチックな雰囲気を醸し出している。 (とんでもない美形だ……)  金色の髪は短く刈り上げられ、ローカラーの白いワイシャツがよく似合っている。  まだ寒いのに上着も着ていない。走ってきたようで、額に少し汗が滲んでいた。  第六王子のトリスタンを見るのは初めてであった。彼は、母親が南国の姫であったので、異国の血も引き継いでいる。  彼もまたアルファであった。 「トリスタン殿下とお約束をしていたのですね、これは失礼しました。どうやら王宮内で迷っておられるようでしたのでお声をかけたのですよ。そうしたらぜひご一緒に、と誘われましてね」  その言葉を聞き、怒りで顔が赤くなった。レアはそんなこと、一言も言っていない。 「そうなのですね、でももう僕が迎えに参りましたので大丈夫です。ご迷惑をおかけしました。ナハール殿は御用事にお戻りください」 「本日は仕方ありませんが、ぜひハルスウェル殿とまたお話がしたい。今度、お食事でもどうですか? ゆっくりとお話ができるように個室をご用意しますよ。ハルスウェル子爵のお屋敷は郊外でしたね。週末に迎えの馬車を寄越しましょう」  ナハールは不躾で、いやらしい視線を隠そうともしない。レアは不快感を募らせていった。  そんなもの、行くわけがない。ましてや個室なんて何をされるかもわからないのに。  しかし実家にまで押しかけられると、温厚な義父はナハールの命令に逆らえないかもしれない。 (ここでキッパリと断らなければ)  レアがそう決意し、口を開いた時、トリスタンが一歩前に出た。  そして、驚くべき言葉を言い放つ。 「ハルスウェルは今の僕の恋人です。もう宮中に噂は出ていると思っていましたが、まだだったのですね」 「えっ」  今度はナハールが驚愕の表情で二人を見比べている。  しかし、レアもナハールと同じような表情になっていた。 (恋人っ? どういうことだ?)  トリスタンの発言に驚き、今度は顔が真っ白になる。  やれやれ、とでもいうように、トリスタンはわざとらしく首を横に振っていた。 「知らなかったのなら仕方ありませんね。けれどハルスウェルが僕の恋人である内は軽率なお誘いをおやめください。氷の女王と称されるほど、軍規と規律に厳しい彼が甘くとろけるのは僕の前だけですから」  トリスタンは意味深な視線をレアに送るが、レアは意味不明な言動に思わず目を見開きながら、眉間に皺を寄せる。 「それとも、皇国にはその国の王族の恋人を奪うような文化でもあるのですか?」 「まさかそんな……、はは、失礼なことをしてしまいましたね。申し訳ない、こう見えてわたしも忙しいんです。退散させていただきますね」  ナハールの言ったまさかそんな、には二重の意味が込められているのだろう。彼は元来た道を足早に引き返して行き、すぐに姿は見えなくなった。  レアはナハールの背中が見えなくなってもしばらく呆然と立ち尽くしていた。そしてトリスタンの放った言葉の意味を反芻していくと、怒りがむくむくと込み上げてくる。 「危ないところだったね、あいつは特にしつこいから」 「何ということを言ってくれたのですか」  トリスタンの言葉を遮り、レアは低く、怒りの声を発した。眉を顰め、唇を引き結ぶ。そしてトリスタンにきつい視線を浴びせた。 「えっ、す、すまない、何か気に食わないことでも……」  まるでわかっていないトリスタンの様子にさらに腹を立てる。 「恋人なんて、どうしてあんな嘘をついたのでしょうか。そんなこと、ナハールなんかに言えばもう明日には宮廷中に広まってしまうでしょう」  しかし今度はトリスタンの方が不思議そうな顔をしている。 「どうしてそれがいけないんだ?」  レアはトリスタンの返答に耳を疑った。  この男は、恋人でもなんでもない、初対面の男をいきなり恋人扱いして、人に言いふらし、他人が怒らないとでも思っているのだろうか。普通の人なら怒るだろう。  思わず絶句していると、トリスタンは更に信じられないことを言い放った。 「だって君、僕のことが好きで近衛騎士になったんじゃないのかい?」 「違います!」  咄嗟のことで、大きな声が出た。珍しく声が荒くなる。廊下に大きく響いた自分の声が耳に入り、少しひるむ。 (相手は末席とはいえ、王子だ、王族だ)  冷静になれ、冷静になれ、と自分に言い聞かせる。  飲み屋にもいかず、社交界にも出入りのないレアは噂には疎い。だから今、宮中や市井でどのような噂が流れているのかは把握できない。  だからもしかしたら、『レア・ハルスウェルは第六王子トリスタンのことを想っている』という噂があるのかもしれない。  だが、仮にレアに好きな人がいたとして、その好きな人がいるような職場では絶対に働きたくはない、と思う。公私混同は厳禁だ。  もちろんトリスタンのことは好きでもなんでもない。  それに生まれてこの方、恋愛なんかしたことはない。恋人もいたことはない。誰かにかまけている暇があるのなら、白百合の騎士になれるよう努力を重ねている。  絶対にあり得ない。レアがトリスタンに恋をして、近衛騎士を目指していた、なんて。 「私が近衛騎士を目指したのは子供の頃の思い出があるからです。幸運ながら、勇壮で、高潔な白百合の騎士とお会いする機会がありました。その方に憧れ、騎士を目指したのです。トリスタン殿下を想っているから、では決してありません」  何か言おうとしたトリスタンをレアはきつく睨んだ。 「それに、トリスタン殿下と私が恋人なんて、宮中に広まったら……、私は身体で媚びて、近衛騎士となったオメガという噂が広められてしまいます!」  レアは拳に力を入れた。怒りで肩を震わせる。  一番気に食わないのはそこであった。  オメガは得てしてそういう噂を立てられやすい。一度広まったものは簡単に取り消せないし、組織の評価として、問題あり、とみなされてしまう。 「もうこんな噂を立てられたら……、白百合の騎士なんか絶対になれない、夢だったのに……」  問題のある騎士を王族の側にはおいてはおけないだろう。もしかしたらトリスタン付きも外される可能性がある。  トリスタンの顔をまた睨む。やはり腹が立つぐらいの美形だ。この顔で、第六とはいえ王子様で、アルファで、と条件も揃っている。ああやって言えば、オメガはみんな喜ぶとでも思っているのだろう。 「あんな輩ぐらい、私ひとりでも交わせました。ああやって言い寄られるのも初めてではありません。慣れています、自分で対処できます!」  そう言うと、今度はトリスタンが切羽詰まったような声色になった。 「そんな慣れているなんて……、君はいつも嫌な思いをしているのかい? 誰か庇ってくれる人はいないのかい?」 「馬鹿にしないでください!」  相手が王子だとか、今日から新しい職場の警衛対象だとか、そういうことはもう既に頭からすっかり抜け落ちていた。  いるかいないかもわからない、庇ってくれる人を相手にしているなんて、どれだけか弱い存在だと思われているのだろう。 「オメガとはいえ、私は近衛騎士です。深窓で誰の目にも触れられないよう、大切に育てられてきたわけじゃない」  レアは唇を一瞬引き結んだ。そして、胸に手のひらをがんっと強く当てた。 「初めまして、本日からトリスタン殿下付き近衛騎士となりました、レア・ハルスウェルと申します。私はオメガですが、殿下の庇護を必要とするような、ひ弱な騎士ではありません。今後、このようなご振る舞いはおやめください。どうかよろしくお願いします」   それだけ言って踵を返す。もう顔も見ずにその場を離れた。当初の目的であったトリスタンへの挨拶は終わらせたのだ。今日はもう彼と喋りたくない。 (私は身体や愛嬌で媚びを売り、地位を得るようなオメガでも、アルファの庇護が必要なか弱いオメガでもない。立派な自立した人間だ!)  白百合の紋章をつけた近衛騎士を思い出す。ああいう立派な近衛騎士となるのだ、と一層強く決意した。  地図はナハールに取られてしまったが、ここには多くの使用人が働いている。道なんて他の誰かに聞けばいいのだ。  気分的には第六王子宮に近づきたくはないが、前任者との引き継ぎなどがある。 「もし、すみませんが、第六王子宮へ行くにはどこを通ればいいですか?」  通りかかった中年のメイドにそうやって話しかけると、親切にも一緒に行ってもらえることとなった。
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