見通す先は月の向こう

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寒空の下。その女性は崩落した廃墟のビル三階の淵、壁も天井の一部も失われ、開放的な夜空が広がるその場所で瓦礫のコンクリートに腰掛けていた。 夜風に美しく白い髪がなびき、夜空のような深い青の瞳は片方だけにはめられている。そのもう一方には、灰色の包帯がぐるぐると巻き付けられているだけの、隻眼の女性。 彼女の片方の瞳が見通すその世界に、もう人はいない。高いビルが立ち並び、忙しなく人々が行き来していたのも、もう遥か昔のおとぎ話。 今いる彼女のビルも、かろうじてその形を保っているだけのただの石の塊。 彼女は、微笑みながらすぐ下に広がる湖へと視線を落とした。 そこまで大きくもないが、少し小さな船で漕ぐことができそうなくらいには広さもある。人々がいなくなった今、魚や虫たちが泳ぐことも容易。今も月明かりに照らされて、ゆったりと泳ぐ魚の群れが見える。 ふと目に入ったのは、歪な明るい満月。 優しく揺れる湖の波面に乱された湖畔に浮かぶその月は、等しく空にも浮いていた。はっとしたように女性は顔をあげ、深く暗く青いその瞳に、月と夜空を収めて小さな夜を手に入れた。 「やっぱり、ここだったか」 予兆なく投げつけられたその声に、女性はおもむろに振り返った。 「あら、今日も私のところに来てくれたの? 優しいのね」 「俺も俺で、話し相手がいなくて暇なだけだよ。勘違いはよしてくれ。優しさなんて甘いもの、俺の口にはとても合わない」 そう辛口で返してくる彼——さっぱりとした黒髪に、背の高い男に。 女性は震える絹糸のように繊細な声で返事を返した。 「……今日は冷えるわね」 「火でも起こしてやろうか?」 「星を見るには少し眩しすぎるかしらね」 「あっそ」 そうぶっきらぼうに返事をしつつも、星を見る白髪の女性の後ろから、黒髪の男は羽織っていたローブをかける。 「やっぱり優しい」 「茶化すなよ。ちょっとした気まぐれだ」 少しだけ、二人で夜空を見つめるだけの静寂が訪れた。お互いに何も言わない。視線を交わさない。隻眼の女性は星空を望み、黒髪の男は月を拝む。 「人の大半が亡くなってから早数百年……世界は果てど廃せど、広い宇宙の星空は変わらないわね」 「そうかい? 多少、星は消えていると思うけれど。というより、早数百年て。アンタ、確かハタチくらいだろ」 「レディに年齢を訊くなんて、親の顔が見てみたいわ」 「育ての親ならあの世で見れるぞ。産みの親は俺も知らん」 すると、男が屈んで何やらカチャカチャと音を立てて肩にかけていた荷物を漁り始めた。すぐにカセットコンロを取り出して、お湯を沸かし始めた。 「眩しいわね」 「コーヒー作るんだよ。アンタも飲むだろう」 「気が利くね。寒い夜にはちょうどいい」 「アンタが淹れてくれたコーヒーもいつか飲みたいけどな」 「毎朝お味噌汁を作ってあげることくらいしかできないよ」 「……いつまでも俺に淹れさせるから皮肉っただけだ」 こういうことを平気でいって茶化してくるから困る。男の皮肉も、ただの茶番になってしまった。 「毎度思うが、毎晩毎晩夜空を見上げて、アンタは飽きないのか?」 「飽きないね」 食い気味に答える。 「私は月の向こうに行きたいんだ」 その隻眼いっぱいいっぱいの大きさの月を、じっと見つめる。 「私の憧れ。この灰色に染まるつまらない世界は見飽きたの。片目は灰色、もう一方は果てなき暗黒」 目一杯その手を伸ばして、目を細める。 「あの美しい宇宙(そら)に、私の心は奪われた。灰でも黒でもない。美しい星々が彩るあの空に」 そしてもう一方、空いた手を男の方に伸ばした。 「あなたは、あの美しい空に心奪われない?」 「俺はアンタほどの詩人じゃなくてね。割と現実主義者なんだ。だから、この世界にどれだけ飽き飽きしていても、それを受け入れるしかないと思ってる」 ようやくできたコーヒーを渡しながら、視線を落として彼は語った。 「星を望んでも、月を拝んでも。俺とアンタに与えられた場所はここで、俺とアンタだけじゃいけない場所がある」 一口カップに口をつけ、強い苦味を噛み締めて。 「……案外、悪くないと思ってるんだ。こうしてアンタとコーヒーを嗜みながら星を見上げる夜が。届かずとも、見つめるだけなら俺にもできる」 そんな甘口を、囁くように言い捨てる。じっと彼女の瞳を見つめながら、訴えるように絞り出す。湖畔から届くわずかな水の音と、滑らかな音を響かせる虫の声音だけが、直後に訪れた静寂の中に響く。 「でも、やっぱりあなたも思ってるはず。心のどこかで『憧れ』を。でなきゃ、そんな愛くるしい声と甘いセリフは吐けないでしょう?」 「……否定はしないさ。現実主義と言っても、俺は感情ある生き物だ。憧れもあるし、この世界で高望みしちゃいけないから抑えなきゃなとも思う」 「ごめんなさいね」 「ほんと、片目だけなのにやたら鋭い観察眼だ」 望んだわけでも、望まれたわけでもないが。必然と言うべきか、二人はここまでに長らく語り合ってきた。数日、数週間、数ヶ月、数年。そういう時間を共にした——仲間。例え隻眼でも、心が星空に奪われていても、いやでもわかってしまう。 ——いやでも、わかってしまうのだ。 「ねぇ、やっぱり二人であの月の向こうに行きましょう?」 「……だから、そんなことできるわけが——」 そこで、白髪の女性は手を差し伸べた。優しく、彼の方に手を伸ばす。朗らかな笑みと、柔らかな声音で。 「あなたに少し、手をとって欲しいの。私が私であるために。私がやろうとしていることが、間違ってないとあなたに言って欲しいの」 そこで、黒髪の男は理解した。彼女の言っている意味を、彼女の差し伸べたその手の行き先を、月の向こうへ飛び立つその意志を。 分かろうとしなくても、分かってしまう。 「……あぁ、わかった。どこまでも、付き合ってやるよ」 「本当……どこまでも優しいのね」 力強く女性の手を握った男を見て、女性は一層柔らかに微笑んだ。 「私には眩しすぎるくらいに。月のようにあなたは輝いていた」 何もない世界の、たった二人の人間は。その手を掴んだまま、小さく歪な満月へと降り立った。
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