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6.現実
翌日の夫は、気持ち悪いくらい私を気遣っていた。
朝、私よりも早く起きてコーヒーを淹れる。自分の分だけではなく、私の分も淹れる。インスタントコーヒーの瓶の蓋をきちんと閉める。飲み終わったコーヒーカップをきれいに洗う。
そしてベランダで洗濯物を干し始めた私に声をかけた。
「いってきます」
卓也からその言葉を聞いたのはいつぶりだろうか。思い出そうとしても思い出せないくらい、聞いていない言葉だった。
気持ち悪いと目を細めていた気遣いが、ほんの少し嬉しく感じた。
たった一言で、私の気持ちは軽くなる。なんて単純なんだろう。でも嬉しいものは嬉しいのだ。
このまま思い描いた理想の夫婦に近づける、そう思い始めていた矢先――。
洗濯物を干し終わった私はスマホのメッセージに気づく。卓也からだ。
『テーブルの上に書類忘れてない? 午後の会議で使う大切な資料なんだ。申し訳ないけど、届けてくれると助かります』
テーブルを見ると、書類がぎっしり詰まった封筒が置きっぱなしになっている。
私は午前中、病院の予約があるため今日は休みをとっていた。
『わかった。お昼休みに届けるね』
***
卓也の会社は電車で40分ほどの距離にある。
車で行けば近道を使って20分の距離だが、会社の駐車場が狭いため、車通勤はよほどの理由がない限り認められない。
電車通勤をしている夫は、昼休みを使っても家との往復は難しかった。
私は書類を鞄に入れて、まず予約していた病院へ向かった。
診察を終えて、そのまま夫の会社へと向かう。
届け物をしたのはこれが初めてではなく、今までにも何度か書類や判子を届けたことがあった。
「申し訳ないけど」と言われたのは今回が初めてだ。
来客用の駐車場に車を停め、会社の玄関へと歩いた。着いたら連絡する手はずになっていて、いつもなら駐車場まで夫が取りにきていた。
私がわざわざ車から降りて会社まで向かったのは、朝の気持ちいい気分を引きずっていたからだ。ちょっとでも夫の負担を減らしたい。相手を思いやっての行動からだった。
会社の玄関前には、階段があった。この階段を登り切ったら卓也に連絡しよう、そう思っていた。
一人の女性が階段から降りてきた。20代前半くらいの、若くて髪のきれいな女性だった。風になびく黒髪が太陽の光できらきらと輝き、その女性の美しさを際立たせる。
私は思わず目を奪われ、その女性と目が合った。
すると女性は、私の顔を見てひどく顔を歪ませた。すれ違う瞬間に顔を背け、足早に階段を降りていった。
(なんなの……!?)
私の顔に何かついているのだろうか。それとも……。
手で頬を撫でると、指先に何かが当たった。
ピアスだった。左耳に夫の浮気相手のピアスがつけたままになっていた。
そして私は女性の反応が腑に落ちる。
(あの女が浮気相手か……)
女性は自分のピアスと、卓也から返された別物のピアスの片方を両耳につけた私を見て顔を歪めたのだ。
浮気した夫の会社へ妻が乗り込んできたとでも思ったのだろうか。
階段を登り切り、会社の玄関のガラスに映る自分の姿を見て、私は結婚してから初めて涙を流したのだった。
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