玉響の尊 ~たまゆらのみこと~

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「光子。おまえがそこまでしてやることは無いのよ。もう、おやめなさい」 「母さん。私は自分の意思で、したくてしてるの。大丈夫よ」  そう言って光子は優しくほほ笑んだ。その笑みはまるで仏のように慈愛に満ち、名の通り後光がさすほどに眩しかった。  母であるタキは、娘を前に手を合わせて咽び泣いていた。  タキは泣いてはいけない。泣く姿を見せてはならないと、母屋の裏手に周り、一人静かに涙を流す。娘の思いを無下には出来ない。しかし、自分の娘にこのような事をさせたくはない。と、親として、一人の女性、人間として葛藤する気持ちを抱えたまま、答えの無い迷路を歩く思いだった。 「おかあさん。光子さん。自分にも特攻命令が下りました。  明後日にはここを出発し、本陣と合流いたします。今まで、本当にお世話になりました」  まだ幼さの残る少年は深々と頭を下げ、二人に向かい心からの礼を口にした。 「そうですか。お国のために、精一杯戦って来て下さい」 「はい。この命、無駄にすることなく、必ずや敵陣に風穴を開けて見せます」 「成功をここで祈っています。行ってらっしゃい」    ここは町はずれにある旅籠。  昔は旅行く人の疲れを癒すための場所であり、街の人たちの腹を満たす食堂であった。  しかし、戦中の今となっては、若い兵士たちの仮の住処となり、女将をしていたタキが彼らの母親役を担っていた。  ここに来る子達の中には十代の子も交じっている。幼さの残る風貌は、兵士と呼ぶにはあまりに残酷過ぎる。親元を離れ、散りゆく桜となるべく訓練と勉学をしながら共に暮らす。  苦楽を共に過ごす日々は自然と思いを共有しあい、友と呼びあえる関係性になる。  そして母と呼ばれるタキもまた、彼らと共存していくうちに本当の息子のように思いは募る。  タキの娘である光子は、彼らと同じように兵士として戦い殉職した夫を持つ、若き未亡人だ。だが、まだ二十代後半の光子は、未だ女としての魅力を失ったわけでは無い。  ここで寝食を共にする彼らの、時に姉であり、そして時には淡い恋心を抱く想い人になる。  特攻隊員として招集された者に未来はない。  戦時において時に捨て駒になるとわかりつつ、その命を断る術を持たない者たち。  いつの頃からだろうか。光子が散りゆく桜の、最初で最後の「女」になったのは。  彼らとて若い男。その性を持て余し、思いを残しながら星になる定めを受け入れる。そんな姿を見て、自然に光子は彼らに手を伸ばしていた。この手を掴む者だけに、その肌をさらけ出す。  中にはまだ母親を求めるほどに幼い者も多い。出自はさまざまだ。過ごしてきた環境のせいだろう、母親を早くに亡くした者や、愛を受けずに成長した者もいる。  そんな彼らは、光子ではなく母親代わりとなるタキにその慕情を向ける。  そうしてこの母娘は、彼らの生命を受け入れていた。  静かな夜。  散りゆく桜となる者の思いを、光子はその躰で全てを受け入れる。  それは尊き行為だった。  泣き叫ぶ少年の頭を胸に抱き、ただただその熱い血潮を受け止める。  決して口にしてはいけない言葉も、風の音に、虫の声に、蛙の鳴き音に消されてゆく。  そこに集う者、全てが息をひそめ夜明けを待つ。  泣き疲れ眠るその頬を、光子はゆっくりと撫でるように愛おしむ。  誰の元にも平等に陽は登る。  少年の面立ちを残していた顔つきが、一夜にしてほんの少しだけ男の色を纏い自分の足で立っている。 「本日を持ち、本部所属となりました。かくなる上は、必ずや勝利の旗を掲げられるよう、国のために戦って参ります。今まで、本当にありがとうございました」 「ご武運をお祈りしております」  上官の迎えを前に、世話になった者と仲間たちへの別れの挨拶。ほんの短いやり取りにも監視の目が注がれる。  深々と下げる頭を上げれば、そこには少しだけ大人の顔を覗かせた少年がいる。  憑き物が落ちたようなその表情に、見送る者の中からいつしか声が上がる。 「万歳!」「万歳!」「万歳!」  兵士としての顔を作った少年は、まだおぼつかない様子で敬礼をした。  その顔にはもう恐れは見えない。誉れ高く、誇らしい顔つきで共に過ごした皆に笑顔で向き合っていた。  タキと光子は肩を並べ、上司とともに去りゆく彼の姿が見えなくなるまで、いつまでも、いつまでも見続けていた。    かつて、龍のごとき姿をした国を、その命を賭して守り抜いた護人達があった。  今もその国には清き水が流れ、緑は風に揺れ、今もどこかで産声があがり続けている。  護人達の思いは生命を紡ぎ、幾久しく続く未来を夢みているのだった。
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